LIPS

深刻な話をする相手も、書く場所も、限られていて。もしくは、なくて。
だけれど、たった今、エレベータが閉まる寸前に交わされた彼との会話が。どこに向かうのか、それは、分からない。

「20年後も、俺たちはこうして酒を飲んでいるだろうか?」
「飲んでますよ」
「本当に? 本当にそう思う?」

「思います」

彼の表情を、首肯を、忘れたくない。忘れたくないから、ここに書いておく。違う場所では、もう深刻な話ができないから。

とても面白い漫画があった。ピーチボーイリバーサイドが8月に更新されたけれど、それはまた別の話。

ラブタ

歌はなんだろう。君の知らない物語についてもまた、別の話。

EGOiST Lovely Icecream Princess Sweetie

捨てたもんじゃない。

「朝も昼も夜も風が南へと」

第二週の月曜日、22時半すぎに、札幌の小料理屋で同級生と再会した。彼とは、中学校が一緒だった。

卒業した後は一度も会っていないので20年振りとなる。
当時、話したことはほとんどない。彼がどんな人だったのか、全く覚えていない。名前も卒業アルバムをみるまで思い出せなかった。あだ名と顔は覚えていた。仮にOくんとする。

Oくんが店を始めたことを知り、いつか行ってみたいと思っていた。それは、「積極的に何が何でも」というよりは「タイミングが合えば」という感じだった。そうして、今の会社に入ってから何度目かの北海道出張中、今回は行けるかもしれないと思った。
前日の夜、Oくんとも仲が良かったであろうMに訊く。「出張で札幌にきている。Oくんの店は、日曜もやっているだろうか?」「どうだろう。今は忙しいと思うから明日の昼きいてみるよ。やっていたら私も行こうかな」

日曜日の昼、メッセージが届いていた。「水曜日と第一週の日曜が休みだって。あなたは、本当にタイミングが悪いね」「うむ」「せっかくだから、どこかでご飯でも食べようか」
その日の夜、Mは夕食に付き合ってくれた。また、Sも誘ってくれた。Sと会うのも20年振りだった。
「帰ってきたなら帰ってきたで、早く言えや」Mに言われる。「帰ってきたから構ってほしいと言うのは、ちょっと、遠慮してしまって。だからといって君に黙って彼の店に行くのもどうだろうと思い。ごめん」彼らとは、午前2時くらいに別れた。「スケジュールが変わった。Oくんのお店には、明日行くよ」「二人でどんな話をするんだろうね。とても興味深いけれど」

月曜日、家を出るのが結構遅くなってしまった。仕事に取り掛かる前にアクセルワールドを読み返したせいだろう。「もっと先へ。加速したくはないか、少年」最近始めたばかりのモンストをやりながら、札幌駅からすすきのまで歩く。

Mが話してくれたから、Oくんも俺のことを思い出していたのだろうか。店に入るなり、Oくんに「××くん?」と言われた。「久し振り」

彼は、第一週の日曜日が休みである理由を教えてくれた。「というわけで、ごめんね。昨日せっかく来てくれようとしたのに」「今日来られたから大丈夫」

終電に合わせたのだろうか、二人の客が帰り、Oくんと二人きりになった。お店は、2時までやっているらしい。20年前の話を少し。お互いにほとんど話したことがなかったのに、お互いがお互いを覚えていたということ。そして、俺は勘違いにも気づいた。「Mちゃんもね、中学のときは話したことがなかったと思うよ」そうなのか。仲が良いのだとばかり思っていた。「ねえ、Oくん。気になっていたことがあるんだけど。君はどうしてOくんと呼ばれていたの?」彼の本名には、姓名共にOという字がない。彼は「ああ」と笑い、教えてくれた。「だから、たぶん当時は誰も知らなかったんじゃないかな」なるほど。

誰もが理由を知らないまま、彼のことをOくんと呼ぶ。俺も含めて。そのことが、なんだか面白かった。

午前2時、彼は唐突に言う。「よし、飲みに行こう」「いや、片付けは?」「後でやる」

彼の知る店に向かう。歩きながら訊ねる。
「店を始めるの、すすきので良かったと思う?」
「思う」
「理由を訊いてもいい?」
「みんなが助けてくれるから」

彼の答えは速かった。そうか。相手も話の内容も違ったけれど、同じ答えを聞いたことが俺はあるよ。

閉店時間の欄に「燃え尽きるまで」と書いてある店に二人で入った。ほぼ満席。店主はベーシストらしい。Oくんと別れたのは、きっと4時くらい。いくつかの話をした。その中で、彼は「東京にはさ、いくらでもあると思うんだけど」と言った。俺は、少し考えてから答える。「東京のことは、俺もよく知らない。けれど、別になんでもあるわけじゃないと思うよ。少なくとも、東京にOくんはいない」

楽しかった。またね。

「あいつらの鼻歌が耳障りだ」

お酒を飲んだ日記を書いていたのだが、どうにもしっくりこない。KさんとKさんとOさん。KさんにFさん。Kさんが三人いる。試しに、イニシャルをやめてみた。彼らは何も言わないだろうが、これはこれでいかがなものかと思う。抵抗なく書くことができる人は限られている。一人だけかもしれない。

だからというわけじゃないが、結果だけを書こうと思う。

今年、三回外で寝た。

一度目は、寝不足による。俺が住むアパートまであと数十メートルというところだった。たまたま通りかかったタクシーの運転手が通報してくれたらしい。警察の方に起こされた。そこはかとなく危ないなあと思った。歩道だから大丈夫とか、そういう問題ではない。

二度目は、休憩だった。終電を逃し、店で朝まで起きている自信がなかったので、比較的安全なところを探し、二時間ほど眠った。赤坂の公園にある滑り台。ここなら誰にも見つからないだろう。予定通り起きて、飲みなおした。虫に刺されたのは三箇所。朝には腫れが引いていた。その日のキーワードは「彼女、酔っていないですよ」だろう。とても感心した。「××さんなら大丈夫だと思いながらも、一応の助言だったんでしょうね」彼らと一緒にいると、勉強になる。人との関わり方。良いか悪いかは別として、あのような関わり方もあるのだと。

三度目は、飲みすぎた。「同期会をやります」と誘われて、同僚二人と飲んだ。何年ぶりだろう。「後輩や部下とは、絶対にこんな飲み方しない」彼はそう言った。確かに無茶苦茶だった。一人で一本? 許容の倍である。東口と西口、両方で吐いた。眼鏡をなくした。一部、記憶がない。元々そんなに強くないので、記憶がなくなることはそんなにない。

眼鏡はなくなってしまったが、とりあえず今日も無事である。

どうして格好いいのか、しばらく経って気がついた。

そうか、全ての字に月が入っているんだ。厳密には違うかもしれないけれど、でも。
カッコいいという印象が先にあり、理由は後からやってきた。

北陸勤務のN氏のことを、同僚は親愛の情を込めてオジキと呼ぶ。なかなかもって、言い得て妙だなあと感心する。
かつてのボスは、親方だった。親方は転職し、あちこち飛び回っているらしいが、拠点に変わりはないらしく。
ちょっと前にも、社宅にあらわれたらしい。

「社宅を変える予定がある。君の荷物がいくつかある。片付けに来い」

オジキに呼ばれた。二年ぶりの北陸出張だった。

ご飯をご馳走になり「北陸においでよ。もう一回、一緒にやろう」と言われた。
「ねえ、もしかして」「ん?」「待っていてくれたの?」「まあ、そうなるかな」

「……社宅の片付けって」
「あんなん、君と話すための口実に決まってるだろうが」
「だ、騙したな!!」

何かが違えば、一緒に仕事をしていたのかもしれない。けれど、何かが違わなかったから、一緒に働くことはなかった。
「常駐は厳しいと思うけれど。半分なら付き合う。前に、約束したし」
「ん」
「でも、俺がこっちきたら、Nさんはヨソに行くんでしょう。そんな気がするよ」

七年ぶりに降ってきた。

台所がうるさくて目が覚めた。台所がうるさいと理解したのは、目が覚めてしばらく経ってからで、何の音だろう、こんな音が鳴る目覚まし時計は使っていないと思いながら、音のする方、台所に向かい、やがて理解した。

2008年の八月に同じことが起きている。落下した換気扇が、コンロの上で荒ぶっていた。換気扇の羽根が食器を打ち付けている。コンセントが抜けていないのも、七年前と同じだった。違うのは換気扇が落ちた原因である。前回は、スイッチを入れるために紐を引っ張った結果、落ちてきた。今回は触っていない。俺は眠っていたのだから。おそらく、突風でも吹いたのだろう。

コンセントを抜き、とりあえずそのままに。いつ降ってきたのか、いつ直したのか、実はよく覚えていない。

今の部屋に住み始めて七年か。そんなことを今思っている。何ヶ所か壁紙はひび割れ、ユニットバスの扉は壊れ、誰かを招待する状況ではない。そういえば、ベッドも壊れている。順番に一つずつ。まずはベッドか。夏が終わるまでに。

「幸せな妄想を描いては打ち消して」

ギターのピックを、俺は二種類しか知らない。二本以上の指でつまむものと、親指にはめるものだ。
前者の場合、コード弾きにせよアルペジオにせよ、ピッキングによって弾くものだと思っていた。思い込んでいた。指で弾きたいなら後者を選ぶか、あるいは前者のピックを口にくわえる等して指を自由にするか、しかないと。エアーピック奏法という冗談を以前口にしたことがあるが、その話はまた別の機会に。

弾いてみたい曲はたくさんあって、その一つを演奏している動画をみていた。同じようには弾けないけれど、コードの移り変わりがよく分からなくて、みていた。
「そんなことができるのか」と感心した。

その人は親指と人指し指でピックをつまみ、中指、薬指、小指で指弾きしていた。確かに可能だ。どうして思いつかなかったのだろう。

理由は簡単だ。思い込んでいたからである。

昨年、友達に「何か一緒にやりたいね」と誘われて、真剣に考えたけれど実現しなかった。「ごめんね、約束守れなかった」俺が謝ると、友達は「もしやってたら、俺も寝る時間がなかったよ」と笑った。それも分かっていた。起業したばかりの友達が忙しいということを知っていたから。

だけれど、いつか。そう思っている。

技術とセンス、どちらも敵わないけれど、だけれど、一緒にやることを想像すると、楽しそうだ。彼は、ベースを弾く。誰にタンバリンを任せるかも、もう決まっている。

きっと楽しいから、練習しようと思う。

ラ・ヨダソウ・スティアーナ

ずっと気になっていた場所があって、ようやく寄ることができた。
とても綺麗で、もう少し長くそこにいたかったけれど、実際にいたのは5分くらいだった。

携帯電話で数枚、写真を撮った。

しかし、撮らなかったものもある。

これが恐れなのかと思った。自分の中には、やはり何らかの信仰があるとも。

写真に残さない方が良い、誰にも言わない方が良い、きっと後悔することになる。俺はそう考えた。

それでは、ここに書くのはどうなんだろうか。
どうして書くのだろう。おそらく、動機が混線しているんだと思う。

「え、二人じゃなくて三人でという意味ですか?」「うん。二人でも四人でもない。三人」

俺は友達と話していて「事実」という言葉を使うときがある。何度か、あるいは、何度も。
そのたびに、引っ掛かる。俺は、正しい意味で使っているのだろうか? 辞書をひいてみる。正しいような、誤っているような。だからといって、たとえば「出来事」という言葉に替えたところで、引っ掛かりは残るだろう。

事実ではない。事実とは異なる。俺は、そう言うべきじゃないのかもしれない。

本意ではない。不本意である。こっちか?

喫煙所で、後輩のHに言われた。「彼女と別れようと思います。どっちもイライラしちゃって」「クリスマスは? お休みだったでしょう」「それがですね――」

「よし、Mさんに相談だ」「嫌です」「どうして?」「あの人は、嫌です……」「君たち、仲がよいのに。分かった。言わない」

明け方、「お酒が飲みたい」とHを誘った。24時間営業の居酒屋に行き、二人でビールと熱燗を飲んだ。Hは、二人で飲むのは初めてですねと笑った。そうだね、そうかもしれない。午前7時くらいだろうか、Mさん、I、T、Kの4人が店に来た。俺は手を振った。応えてくれた。彼らは離れたテーブルに座った。

俺はHのことをよく知らない。彼と一緒に仕事をするようになって一年くらい。俺が知っているのは職場での一年間だけで、それは彼のごく一部にすぎないだろう。知っているとは言えない。そして、それ以上に彼の恋人のことを知らない。全く知らない。だから「どういう人なの?」と訊いた。別れようと思っていることに対して、彼は俺に意見を求めていないかもしれない。だけれど、きっと俺は意見したかったのだ。彼女のことをどう思っているかについては訊かなかった。彼が彼女をどのような人だと思っているか、訊いた。

話を聞いて、俺は思ったことを口にした。「君の恋人にお会いしたいんだけど、嫌がるかな」「あー、どうでしょう。でも、全然連絡していなくて、今は誘える状況じゃないんですよ」「じゃあ、誘える状況になったら訊いてみて。俺、○日と○日が休みだから」彼は、少し困った顔をした。俺は続ける。「君はね――」

その頃、同僚の4人が隣のテーブルに移動してきた。6人で乾杯する。仕事のこと、同僚のこと、かつて俺が会社をやめようと思ったときにMさんが引き留めなかったことについて話した。最後の話をしたのはMさんである。

「Mさん、あのとき引き留めてくれてありがとう」「引き留めてねーし」

後日、職場で「珍しい組み合わせでしたね」とMさんに言われた。
「Hに合コンしたいって相談したんだ」Mさんが笑う。

「あいつ、すげー頑張ると思いますよ」「そうかな」

三人で会うためには、Hは彼女と話さなくてはならない。二人は話し合った方がいい。それが話を聞いた後の、俺の意見だった。

「別に言うほど仲良くはないけど。不意に浮かんだ、地下鉄のホームで」

The Homesicksというバンドを知っているだろうか? ホームシックス。
ボーカルがどういう人なのかよく知らない。話したこともない。ライブハウスで最後にみたのは、きっと10年くらい前のこと。
好きな音楽、好きなバンド。紹介したことがあるかもしれない。感想を書いたことも。だけれど、一枚のCDをすすめたことはないと思う。

銀座でiPhone5sを買った日、東京で初雪が降った。

その翌日、ようやくアドレス帳の同期を終えた俺は何気なくiTunes Storeでホームシックスを検索した。新譜があった。試聴する。彼だった。購入する。

衝撃を覚えた。

どうして良いか分からず、友達にメールを送った。彼が変わったこと。彼が変わっていないこと。変わりながらも変わっていない、か。夜、友達から返信があった。歌い方、言葉の切り方。変わっていない。でも、何かが違う。どうしたら良いのか、彼も分からなかったんじゃないだろうか。10年前の彼からはそんな印象を受けた。振り切っていない、居直ってもいない。彼は彼のままだ。音楽が追いついたのか? 彼の魅力が、音楽の魅力になったのか?

素敵な一曲なんて、数え切れないほどある。だけれど、名盤はどうだろうか。春夏秋冬というタイトルのこのCDは、世に残ってほしい一枚だと思う。

彼が、彼らが、休むことを知った。知るのが遅すぎた。彼らの、彼の、ライブを思い浮かべることができる。だけれど、もうみることができないかもしれない。
きっとまたね。言えるはずもない。気軽に言えない。

音楽をやる人の、音楽以外にどんな意味があるというのか。分からないけれど、オフィシャルの、彼の文章を何度も読んだ。

ギターが好きな人、ベースが好きな人。ドラムが好きな人。歌が好きな人。音楽が好きな人。悲しいことがあった人、何も感じない人。
どうか、一度聴いてみてほしい。できることならアルバムを聴いてほしい。

http://homesicks.com/

「僕はスパイになんかなれない」

同僚のMさんと一緒に、スパイになってきた。

クライアントから連絡があった。「××がセミナーをやるらしいですよ。場所は××で、参加費用は××円です」

我々の職種には特殊な面があり、そのひとつに同業との交流が皆無という点が挙げられる。したがって、他社がどのようなサービスを提供しているのか、我々は噂でしか知ることができない。クライアントからの連絡は、もしも興味があるなら私たちの名前を使ってもいいですよという申し出だった。「行ってみたい」と答えた人は数名。結局、俺とMさんが行くことになった。Iも立候補したのだが、ストップが掛かった。Iはセミナーで何度も講師を務めているため、他社ではなく参加者に気づかれるかもしれないというのが理由だった。

「知っている人、いないといいですね」俺が言うとMさんは「どうやって誤魔化しましょう」と。うん。どうしようね。

結論から言うと、俺とMさんはスパイとして三流だった。特にMさん。「きみ、違うよね?」と講師に指摘されたとき、隣にいた俺は「ばれてるよー。俺たち、たぶんばれてるよー」と思っていた。セミナー後に、どこが不自然だったのか、俺はMさんに伝えた。俺も大差ない。突然講師から質問が飛んできたとき、とっさに正しい答えを言ってしまった。間違えた方が目を付けられなかったのではないか。

個人的な収穫は、あった。

それは、講義の内容ではない。

外に出ると、聞こえてくる名前がある。仮にO氏とする。

正直にいうと、俺は自分の会社の方が他社よりも優れていると思っている。経営者も、社員も。セミナーの内容も、他の仕事も。だけれどきっと他社にも凄い人がいるんだろうなあと思っていた。O氏の評判は大変良い。どんな人なのか、興味があった。

セミナーにおいて、メインの講師は他にいた。だけれど、O氏も名乗る場面があった。「彼が、そうなのか」感心した。

こんなことがあったんだよ。俺は友達に話す。

顔とか名前とか。髪型とか声とか。大事なことなのだろうか? ずっと考えていた。今も考えている。「俺、Oさんという人を初めてみたんだ。なんだか嬉しくなっちゃって」

そう、俺は嬉しかったのだ。大切なことかどうかは分からない。そして、彼と接することは、おそらくこの先訪れない。一緒に働くこともないだろう。酒を飲むことも、話すことも、ないだろう。

かつて、俺は自分が働くということがどういうことなのか想像できなかった。働き始めた年齢も、まわりの人たちと比べると遅い。社会人ってなんだよと思っていた。今も少し思っている。だけれど、もしかしたらと考えている。

働くということは、もしかして自分にとっての他人が増えるということなんじゃないか? 

今更かもしれないが。考えることが増えた。

「言葉はまた途切れてく 漂うことができなくて」

ローカルに保存された、友達の昔の日記を読み返していた。知り合う前に書かれた日記だ。彼の知る世界に、俺はまだいない。いや、いることはいる。認識されていない。

俺と彼の記憶。どちらかに誤りがある。

俺と彼はいつ知り合ったのか?

俺は、彼が専門学校に通うために上京してからだと思っているし、彼は、彼が高校生のときに俺と知り合ったと思っている。曖昧なのだ。

今でこそだいぶ馴れたが、彼には驚かされるばかりだった。そのとき彼は18歳か19歳で、年齢など関係ないと思いながらも「こんな18歳がいるのか」と思わずにはいられなかった。たぶん、自分と比較している。だから、同じくらいの年齢だった頃の俺が幼かった。それだけのことかもしれない。

彼と喧嘩したことはほとんどないけれど、何度か怒らせたことはある。あるいは、不愉快に。もしかしたら、もっともっと沢山あるかもしれない。だから俺が気づいたのは数回、という意味だ。逆に、俺が切れたこともある。一方的に。そのときのことをつい最近、といってもおそらくは半年以内に彼が話して、恥ずかしくなり、ごめんなさいと謝った。

そんなこんなで、俺の手元には彼が高校生の頃に書いた文章もあり、懐かしい。知り合っていたのか、否か。定かではないけれど、懐かしく思う。

おそらく、俺は彼よりも彼の音楽を繰り返し聴いている。よく分からないなあと感じる曲もあれば、これはいいと思う歌もある。

前に同じことを書いたかもしれないが。

彼が録音の仕事をしているときは、あまり会うことができなかった。彼はほとんど家に帰っていなかった。俺は彼に比べたら休みがあった方だけれど、今みたいにどこかへ出掛けようという感じでもなく。寝てたら終わった。
それでもたまたまタイミングが合って、きっと一緒にお酒を飲んだ夜に、彼がレコーディングに関わったという曲を聴かせてくれた。彼の部屋だったか、電車の中だったか、よく覚えていない。

「どう思う?」

たしか二回聴いてから俺は感想を述べた。「諦めているように感じる」彼はにこにこしながら話を聞いている。俺は続ける。「うまいんだけど。この人、何かを諦めているんじゃないかな。後ろ向きってわけじゃなくて、なんというか、仕方ないというか、希望に溢れているようには感じないし、だからといって絶望しているわけでもない。ただ、そこにいる感じ。腹が立つことがあっても、悲しいことがあっても、そこにいることを受け入れている感じ」原文ままではないが、このようなことを言ったのだと思う。そして、俺は気づく。彼はにこにこしていたんじゃない。ニヤニヤしていた。

「ねえ。これ、誰が歌ってるの?」

俺の耳は節穴だね。誰よりも聴いているはずなのに、君が歌っているということに全く気づかなかった。

今年の春に、ラジオから流れる歌を聴いて、俺は彼のことを思った。

彼の曲みたいだ。

歌詞は英語で、何を歌っているのかよく分からない。だけれど、なんだか、彼みたいだ。
コードとかリズムとか、うまく聞き取れない。手拍子をしたくて、俺はリズムが取れなくて、君の手拍子を頼りにして、君はそんな俺をみて。相変わらずリズム感がないなあ。きっと呆れて笑ったのだと思う。
そうなのだけれど、分かったんだ。君の歌みたいだということは分かった。

俺は君に言う。「聴いてほしい曲がある。これ、君っぽくない?」聴き終わった後、君は笑う。「本当だね」

君に話したいことがある。いつだったか、君は俺が書いたクリスマスの話を読んで「ありえねえ」と笑ってくれた。
君に聞いてもらいたいサンタクロースの話がある。サンタがいた。煙突がなくて、困って、「やむをえない」と呟いたサンタがいたんだ。

色々な人が来て、去って、そして残っている。

いろんなことがあって、結果、スケジュールを組む人が変わった。
パズルのようなものだと感じていた。休日数を考えたり、誰と誰が組むのか考えたり。
新しくスケジュールを担当することになった上司のことを、俺は知っている。勿論、前任者のことも。
12月の仮組みをみて、笑ってしまった。彼の人柄なんだろうな。そう思った。
この後どうなっていくか、まだ分からない。これは現段階での、彼の意思表示にすぎない。

だけれども。スケジュールがそのまま確定したらならば、なんだか、少しこの会社は変わるかもしれない。

俺はサンタクロースにでもなろうかね。偽物のサンタさん。

「5日中って俺ら時間で、ですか?」「そうですね」

勤め先には、いくつかの取り決めがある。それらの取り決めの一つを、俺とMさんは守っていない。俺とMさんだけが守っていない。

「お前らだけだぞ。いい加減にしろ。全国に××名いる社員の中で、お前らだけがやっていない」

社長との面談で、そう言われた。

「Mさん、社長に怒られた」「俺も」「分かっているんだけどね」「うむ」

それから一ヶ月ほど経って、Mさんから提案があった。

「お互いがお互いを監視しましょう。毎月5日までに、しっかりやっているかどうか」
「ふむふむ」
「もし、どちらかがやっていなかった場合は」
「場合は?」
「やっていない方がやっている方に酒を奢る」
「乗った」

Mさんと約束をする。その約束が、もう一つの約束を――社内での取り決めを守ることになる。これは何か、俺にとって大切なことを示しているのかもしれない。そんなふうに思った。

俺は、少し考えてからMさんに訊いてみた。
「Mさん、どちらもやっていない場合は?」
「――」
そのとき彼がなんと答えたのか、俺は忘れてしまった。惜しい気もするけれど、そんなことはありえないから、ありえないと思ったから、だから忘れてしまったのではないか。そういうことにしよう。

3日か4日か、忘れてしまったけれど、俺はMさんに注意した。「やってない。Mさん、やってないじゃないですか! もうすぐですよ」「あなたもやっていないでしょう! みなくても分かります」「俺は、これからちゃんとやるもの」「あの」「何」「5日中って俺らの時間で、ですか?」Mさんの言いたいことは、すぐに分かった。
「そうですね。帰るまでが俺らにとっての5日だから。30時でも31時でも、5日は5日」

「Mさん、もう5日だよ!!」
「今やってますわ! あなたもやれよ。早くやれ!」
「うん」

5日の28時、俺はこうして日記を書いている。

「だから今日は記念日だ。戦った僕の記念日だ」

いつからだろう、ずっと同じ曲を練習している。一年は、経っていないと思う。
友人から預かっているギターを、アンプシミュレータにつなぐ。
彼が弾いたなら、こういう音にはならない。弾いていないときの雑音がなくならない。
こんなふうに雑音が出るようなセッティングを、彼は選ばない。
その意味で、俺は迷っている。好きなようにやればいい。
彼は、きっとそう言うだろう。

俺の迷いは、知識不足によるものだと思う。

何かが足りないと思うか、何かが必要と思うか。

8月中に、録音してみようと思う。
椅子がない。俺はどこに座れば良いのか。床か、ちゃぶ台。そこに迷いはない。

違うよ。たぶん、君の話が面白くなかったんだ。

24時間営業の中華料理屋さんで朝ご飯を食べていた。五つ離れたテーブルに三人の客がいる。年齢はどれくらいだろう。二十代後半か。男性二人と女性一人。窓側に座る男女は交際しているらしい。

窓側の彼が言う。「俺は映画をつくりたい。けれど、60億人が良いと思う映画は作れない」

もう一人の彼が言う。「諦めるなよ」窓側の彼は「諦めてないよ。そうじゃなくて」もう一人の彼はその先の話を聞くつもりはないらしい。「諦めた奴の映画なんてみたくねーよ」違う話を始めた。彼の考える芸術の話、作ろうと思って結局作らなかったアプリの話。

諦めていないんだよ。

もしも、どうしても伝えたいことがあるのなら。何を諦めていないのかを話せば良いのだ。俺はそう思った。最初から60億人が良いと思う映画を作るつもりなんて一ミリもない。そう言えば良かったのだと思う。彼が作りたいと思う映画がそうであるか否かは分からないけれど、仮にそうであるならば。

窓側の彼女は途中で帰った。「ごちそうさまでした」と言って。

「たぶん、お前の彼女な、俺たちがずっと話してたから。構ってほしかったんだろうな」

違うと思う。そうかもしれないが、俺は違うと思う。あなたの話があまりに面白くなくて、それで帰ったんじゃないだろうか。

しかし、それもまた違うと考え直す。それは、もしも俺が彼女だったらという想像に基づいた考えであり、彼女がなぜ帰ったのか、知るすべはない。更に、もしも俺が彼女だったら、あまりにも質問したいことが多すぎて、おそらく帰らなかっただろう。それに彼の、あるいは彼らの話を面白いと感じる人だっているだろう。もしかしたら、俺だけが詰まらないと感じただけかもしれないのだ。

あるいは、面倒くさくなったのかもしれない。

それなりの大きな声。会話が聞こえぬよう、俺は音楽を聴き始める。栗山千明のコールドフィンガーガール。