「もし生まれ変わったらなんて目を輝かせて言っていたくない」

80年代もしくは90年代の音楽がまとめられているYouTubeを視聴していると、高い確率で「もう一度あの頃に戻りたい」「やり直したい」といったコメントを目にする。俺にはない感覚だ。記憶を保持しない状態で戻ったとしても、俺は同じ選択をし、同じ今日が訪れるだろう。もう一周は御免こうむりたい。記憶が残っている状態で戻ったとしたら。どうだろう。もしかしたら、異なる選択をするかもしれない。

そんなことは、これまでに何遍も考えてきたことだ。だけれど、異なる選択をするということは、異なる人たちと関わりを持つという意味に近い。好きな人も、嫌いな人も、俺にとっては必要な人たちだ。彼らがいなければ、今の俺はいない。だからといって、二周目で同じ人たちと同じように関わろうとすることは、なんだか、彼らに嘘をついているような気がしてならない。今回は、たまたま仲良くなることができただけで、仲良くなろうと頑張ったわけじゃない。

今年度に大学受験を控えている知人がいる。勉強、頑張っているらしい。そんな彼女には、どうしても行きたいライブがあった。先日、彼女はチケットが当たった旨をツイートしていた。二公演ともに当選し、二日目の連番相手を緩く探していることも書き添えられていた。誘う人はいくらでもいるだろう。最後の手段として、ご両親や弟さんもいる。

受験勉強頑張っているものね。その日くらい、好きな人の音楽を聴いても罰は当たらないと思うよ。そんな気持ちを込めて、俺は「いいね」を押した。

「いいねを押してくれたってことは連番してくれるんすか」

愕然とした。

「リプライを送ったら邪魔かなと思って」

「連番してくれるんすか。くれないんですか。どっちですか!」

俺と一緒に行っても面白くないと思うよ。他に、誰もいないなら。色々思いついたけれど、結局俺はそれらをしまったまま「いいよ。連番しよう」と返した。

「本当にいいんですか?」

「うん。ちょっと前から煙草やめようかな」

「やった。お昼ごはん一緒に食べましょう」

きみは、煙草の匂いが嫌いだと言っていたから。

ツイッターでつながったとき、彼女は中学生だった。知っていたらつながらなかった。だから、もし仮に俺に二周目があったなら、彼女とは知り合えない。やっぱりいいや。リテイクはなしでいい。俺はこのまま参ります。

もし俺に何かあったら、そして、ニーズがあるのなら、どうかこの文章を週刊文春あたりに紹介してください。