「屁理屈の正義で夢を殺す。僕らの明日が血を流した」

友達の名前には、花の名前が入っている。綺麗な名前だと思う。俺は彼女のことを名前で呼んでいるけれど、ここでは仮に桜さんと書こう。

桜さんとYさんは恋人同士で、俺は彼女よりも先に彼と知り合った。彼は千葉寄りの町で働いている。年に数回、会いに行く。

春にCさんが異動する。そんな話を聞いた。異動先は、Yさんが働く町。ふらっと遊びに行ってお酒を飲んでいたら、なんだか彼女を待っているみたいで、ますますストーカーの色彩が強くなるかもしれない、今のうちに会っておこう、俺はそう考えた。

桜さんに連絡した。日曜日、Yさんが働いているかどうか。また、桜さんに時間があるかどうか。もしYさんが働いていて桜さんに時間があるなら彼の店に行こう。聞いてもらいたい話がある、と。

「実は、1月いっぱいで彼、辞めたんです。嫌な辞め方ではないです」

「!!」

そうなるとどうなるんだ。俺があの町に行く理由はなくなる。あの町に行かなくなるということは、ストーカーの嫌疑をかけられることもない。

「彼は日曜、お休み?」

「はい。私は仕事なので21時過ぎなら」

「俺の話を聞いてくれー! もちろん、彼も一緒に」

「オッケーです!!」

相談したかったわけじゃない、賛同して欲しかったわけでもない。強いていうなら答え合わせか。たぶん、俺は答え合わせがしたかったんだ。

日曜日の夜、駅で二人を待つ。

「すみません! 今××にいるんですけど……」

そこは、駅から5分ほど歩いた所にあるパチンコ屋さんだった。状況が分からなくて笑った俺は「仕事とは」と返事を書いた。

後で話を聞くと、お休みだったYさんはパチンコを打っていたらしい。仕事を終えた桜さんが彼を迎えに行くと大当たりが続いていた。終わる気配がない、やむをえない、彼を置いていこう。彼女が判断したタイミングで、ちょうど大当たりが終わった。

YさんはYさんで、俺が桜さんに話したいことがある、ということは、自分がそこにいない方が良いのではと考えていたらしい。なんとも呑気というか、器が大きいというか。君に聞かれて困る話を桜さんにしないよ。

世の中の、パチンコのイメージが最悪であることは分かっている。「ゴミ溜めみたいなパチンコ」俺の好きな曲にはそんな歌詞があるように。だけれど、それは事象の一面にすぎない。娯楽としてのパチンコも確かにあるのだ。『僕だけがいない街』にあるパチンコの描写はとてもフラットなものだった。

そういうわけで、我々は無事合流を果たした。

「待たせてしまって」

「待ってない」

黄色の看板を掲げる焼肉屋さんで、二人に話を聞いてもらった。

「でも、音楽は続けるんですよね?」

「フェードアウトしようと思う」

二人は、肯定も否定もしなかった。いや、どうだろう。少なくとも「こいつ何言ってんだ」という顔をしていなかったように思う。答え合わせ、できたかな。

「昨日の今日も延長戦」

戦ではなく線かな。どっちだろう、調べたら戦だったけれど。

1月10日、ちょっと間違った。それが些細なことなのか大事なのか、俺には分からない。しくじったな、そう思った。

夜、別件で友達に連絡した。最初は文字で会話していたのだけれど面倒くさくなったのだろうか「電話していいっすか?」と言われた。少し、時間があった。

10分に満たない電話が終わった。雪の降る町、コンビニの外にある灰皿の前。俺は二つの意味で驚いていた。

ひとつは、俺の心がこわばっていたということ。自覚していなかった。友達の声を聞いて、ほどけて、気づいた。俺、こわばっていたんだ。原因ははっきりしている。しくじったからだ。

もうひとつは、こわばりが直ったこと。治った、かな。直ったか。

友達の声で直るんだなあと驚いた。

翌日、俺は自分の疑問が的外れであったことに気づく。「こいつ何を言ってるんだと思っていただろう」友達に送る。「未だによく分かっていません」返信があった。

「君と話したかったんだな」

俺の冗談は冗談のまま届いた。いやあ、しかし驚いた。そうか、そういうこともあるか。

「手を振った君がなんか、大人になってしまうんだ」

これは、もはや呪いみたいなものじゃないか。

 ◇

 吸っている煙草のパッケージが変わった。幾度となく見た目が変わってきた銘柄ではあるけれど、今回の変更は、ちょっとあまり、好きではない。気持ち悪いというか落ち着かないというか。馴れるのかな。

 煙草を変えるかもしれない。

 そういえばと考える。彼が吸っていた煙草はなんだっけ。小説の登場人物だ。ひとりは思い出せる。たぶん合っている。念のため調べてみた。やはり合っていた。ラクダ。もうひとりは、と考えてみる。思い出せなかった。調べた。

 俺が今吸っている煙草だった。偶然ではない。俺は彼の影響でこの煙草を吸い始めた。だいぶ恥ずかしい。彼のように頭の良い人にはなれなかった、彼のように優しくもなれなかった。だけれど、きっと俺は彼に憧れてこの煙草を吸い始めたのだ。これは、恥ずかしいぞ。何度でもいう。恥ずかしい。そうか、そうだったのか。すっかり忘れていた。なんだか呪いみたいだな。そんなふうに思った。

 ◇

 友達との約束を果たした。ついでに、俺の考えを伝えた。俺は彼がどのように考えているのか分からない。話を聞いたところで、おそらく教えてはくれないだろう。もしくは、彼も分かっていないんだろう。彼と俺が違う人間であるということは分かっている。だから俺の考えを当てはめたところであまり意味はない。それでも。分からないなら分からないなりに考えてみるしかないじゃないか。下手の考え、休むに似たり。休め休め、休んでおけ。ニタリ。俺、ニタリという表現を使ったことがないな、たぶん。

 「前にも言ったけど、それはふたりでやった方がいいと思う」

「ミックスよろしくです」

「俺は、関わらない方がいいと思うんだ」

 分からない。答え合わせもできない。俺だったら。彼が俺なら「まぜて!」と思ったんじゃない。彼は我々とやりたかったんじゃない。君とやりたかったんだ。だから、そこには俺がいない方がいい。

 「パソコンない!」

「貸すよ」

「使い方分からない!」

「教える」

 前にも書いた。意地悪をしたいんじゃない。それが、一番良いと思ったんだ。実はこのパソコン、それなりに大切に思っているんだ。友達から預かっているギターと同じくらいには。でも君ならいいよ。貸すよ。

地の文を、俺は彼女に話していない。俺は、そんなに話すのが得意な方じゃないし、どうだろう、もしかしたら話したくないのかな。

 

友達を家まで送り「それではね」と言う。さよなら。

「伝えなくちゃいけないお前の言葉で」

昨年末、友達と約束していた。話を聞いた結果、白紙に戻した。

気をつけていたつもりだったけれど、十分ではなかった。もしくは不適切だった。友達が恋人と喧嘩した。原因は俺らしい。12月28日が終わった夜、いつもの焼鳥屋さんが避難所になっていた。

彼女から話を聞いた俺は「ごめんね」と謝った。そんなつもりじゃなかったし、そんなつもりはなかった。だけれど、俺の気持ちは関係ない。大切なのは、相手がどう思ったかだから。友達の恋人は、一緒にお酒を飲んだり遊んだりするのが嫌だったらしい。よくある話だ。そして、たぶん俺はよくある話が好きじゃなかった。お前の知っている誰かと俺を一緒にするな。俺は誰かに対してそう思っているのかもしれない。少し、嘘をついた。本当は、こう考えている。俺は、お前みたいにはならない。会ったこともない特定の相手に対して、そう思っているのだ。

「あのね」
「はい」
「優先順位の話なんだけど。本当に困ったことが起きたとき、俺は大切なことを上から三番目くらいまで考えて、それ以外の全てを無視する」
「はい」
「俺にとって約束はとても大切なことだけど、今回の場合は三番目までに入らない。ご飯食べに行くの、やめよう」
「‥‥はい」

そうして、我々の約束は白紙に戻った。お店の人になんて言おう。後で考えることにした。

「彼に一言謝ろうと思うんだけど」
「謝らないでください。悪くないんだから」
「良いか悪いかって話じゃない気もする」
「謝らないでください」

困った。

29日は昼くらいに起きた。
友達の恋人からメッセージが届いていた。それは、要約すると「言いがかりをつけてすみませんでした。まったく嫌じゃないので、これからも彼女と仲良くしてください」という内容だった。どうしろっていうんだよ!! 地の文で久し振りに感嘆符を使った気がする。状況が分からない、どういう話になっているのだ。
「起きてる?」友達にメッセージを送ると、すぐに「起きてます!」と返事があった。逃げるな、行け。電話した。緊張する。

「彼、酔っていて何も覚えていないらしいです。私は、ネチネチとメッセージを送り続けています」
「だから、返事が早かったのか」
「はい」
心配だから電話した。言わなかった。
「たぶんまだ間に合う。先のことを考えよう」
二人のことを考えよう。お酒さえ飲まなければ。よくある話の、息の根を止めよう。

友達との電話を終えた後、予約していた店に電話した。どうしよう。俺は、意味のない嘘をついた。
「振られました。一人で行きます」
今日も格好悪い、恥ずかしい。そう思いながら。

店長と料理人。二人が俺を迎えてくれた。俺のことをキッチンの方からチラチラと見ては、にやにやしていた。
「深爪さん、振られちゃダメだよ」
笑った。まったくもって、その通りだ。

「料理の写真、送ってください」
友達からのメッセージ。
「嫌がらせになると思ったからやめておこうと思って」
「ならないです! 送ってください」
二枚ほど送った。
「行きたかった! 行きたかった!! 行きたかったー!!!!」
だから言ったのに。
「今の問題が解決できたら、きっとまた誘うから」
「約束ですよ!」

また、約束か。昨日の友達は、俺が驚くくらいに弱っていたけれど、少しは回復したのだろうか。

俺が何かを話したところで、おそらく、彼は俺の話を聞き流すだろうというのが彼女の予想だった。もしそうなら意味がない。そして、俺には謝って欲しくないとも。優先順位の話だ。俺が納得するかどうかは、三番目までに入らない。最優先するべきは。

年が明けた。彼に会えた俺は二つの提案をした。そのうちのひとつに、彼女は抗議した。無視した。とても大切なことだ。意地悪をしたいんじゃない。俺が悪かったと非を認めず、彼の立つ瀬を壊さず、聞き流すという選択肢を彼から奪う方法はこれしか思いつかなかった。

うまくいくかどうかは分からない。それが分かるのは、早くても来年、もしくは再来年だろう。自分なりには、頑張った。

そういうわけで、ちょっと長くなったけれど本題に入ろうと思う。

はてなブログに引っ越します! 今まで、俺の話を聞いてくれてありがとうございました。これからもよろしくお願いします。いや、本当に。俺の話を聞いてくれ! 俺の、話を、聞いてくれーーーー!!!!!!

https://deepcut.hatenadiary.com/

「何度消えてしまっても、砂の城を僕は君と残すだろう」

12月10日、友人のMに言った。
「今回の件、俺は首を突っ込まないことにした」
Mからは「私も」という返事。彼女は、ああ、そうだと続けた。

「私もきみに言いたいことがあったんだ。課題図書を交換しない? 本を読んでいたらきみに合いそうだと感じた。送る。でもそれだったら、きみからも何かお薦めを教えてもらおうと思って」

俺のことを覚えておいてほしいとは思わないけれど、何かをしていて俺のことを思ってくれたのだとしたら、それはとても幸運なことだ。俺も、見上げた月が細いとMのことを思い出す。猫の爪、俺じゃなくて彼女が使った言葉。少し考えてから正直に話した。

「互いに本を送り合うという行為は、とても瑞々しいものだと思う。俺の提案は『未来に訪れる瑞々しさ』を放棄するものになってしまうかもしれない。けれど、お互い、タイトルを伝えるに留める形はどうだろう? 俺、あんまり家にいないから本一冊受け取るのも難しくて」

Mは「うん。そうしよう。何か思いついたら教えてね」と。あれから1ヶ月。「これかな?」と思いついた本が二冊ほどあったけれど、読んだのはだいぶん昔のことで、彼女に薦めたいのかどうか確信が持てない。だから、もう一度読んでみようと思う。

「いったい誰が知っているの? いったい何が教えてくれるの?」

俺のことを「○○ちゃん」と呼ぶ人は限られている。そのうちの一人から電話があった。勤務中、原則として仕事以外の電話には出ないのだけれど、彼からの連絡はそう多くなかった。
「○○ちゃん?」
呼ばれて、少しだけ懐かしい気持ちになった。
「何かあった?」
「××くん、うちの会社に来ているよ」
最初、俺は聞き取ることができなかった。あるいは聞こえていたけれど、彼が××の名前を口にすることを想定していなくて、認識できなかった。聞き直した。
「××くん」
「まじか」
××は元同僚だ。そうか、友達の会社を受けたのか。どれくらいの頻度で発生する偶然なのだろう。友達が代表を務める会社は、まったくの別業種だった、友達は、今回の偶然を面白いと感じたのだろう、だから、俺に電話をくれた。
「今、目の前にいる」
正解か不正解かを別として、俺は自分が正しいと思うことを選択している。試験と同じで、わざとは間違えない。どうするべきか? 話しながら考えていたけれど分からなかった。どうすれば良いのか、判断できなかった。
電話の向こうにいる友達のことを思う。そして、友達の向かい側に座っている元同僚のことを思う。だけれど、それはきっと一瞬だった。それ以上に、二人の家族のことを考えていた。
余計なことをしたくない。邪魔を、したくない。俺は、俺の一言に対して責任を取ることができない。だけれど、だったら、沈黙すれば良いのだろうか。沈黙が正しいのか?

それもたぶん、違う。

きっと俺の異変に気付いた友達に言う。
「話したいことがある。けれど、時間がほしい。かけ直す」
通話時間は1分くらいだった。今、携帯電話を確認して驚いた。1分しか話していないのか。5分後に、友達からもう一度着信があった。

「席をはずした」

友達は勘が鋭いけれど、それ以上に、俺の挙動がよほどおかしかったのだろう。

××が会社を去ることになった理由を、友達に話した。間違っている。俺は人の邪魔を選んだのだ。こっちも、たぶん間違いだ。

「そう、だったんだね」

××は、俺にとってかわいい後輩の一人だった。俺は友達に続ける。差し出がましいと思った。だけれど話した。彼の優秀なところ、彼と働くうえで気をつけた方がよいところ。時間が足りない。話したいことは沢山あった。

「あとは、きみが判断してほしい」
「分かった。仕事中だよね、ありがとう」

友達との電話が終わった。俺は、電話をしながら汗をかいていただろうか? 覚えていない。

「しょうがないけど笑いながら、追い出さないで暮らしてみる」

11月25日の日曜日はお休みだったが、少しだけ会社に行った。週末、色々なものをぶん投げて帰ったから。1時間もあれば終わるだろう、パソコンを開いたとき同僚のRからメッセージが届いた。
「家っすか!」
「ううん。今、会社ついたとこ」
「現場っすか!?」
「いや、明日の準備」
「中華料理屋さんと焼き鳥屋さん、どっちがいいですか!」
飲むことは決まっているのか。笑った。
後で話を聞いたところによると、日中、Rはゲーム仲間と遊んでいたらしい。彼はそのままお酒を飲みに行くつもりだったが、ゲームが盛り上がってしまい、酒の席がなくなった。お酒を飲む気になっていたRは、代わりというわけでもないけれど休みである俺とMさんに連絡を取った。なるほど、よく分かった。なお、Mさんからの返信は、我々が一緒のときにあった。
元々、明日の準備が終わったら焼き鳥屋さんに行こうと思っていた。明日は早い、7時に起きなくてはならない。普段夕方に起きる俺にとっては、早起きである。Rは気兼ねなく話せる同僚であるし誘ってくれた彼の気持ちもある。Rじゃなければ、断っていたかもしれない。
携帯電話は引き続きブルブルと震えていた。無視して準備を終わらせた。



テーブル席で酒を飲みながらRとモンスト。このゲームを、我々は比較的真面目にやっている。2年か3年。そして、彼はモンストの師匠だった。彼の技術には届いていないけれど、ゲームについて話し合うくらいのことはできるようになった。
途中、カウンター席にKさんが座った。昨年の7月、深夜に連絡してきた友人である。軽く挨拶を交わす。その後、Cさんも店に来てカウンターに座った。彼女の挨拶も最小限だった、いや、素っ気なかった。「ミックスをやらずに遊んでいるのか!」違う。そんなことを思う人じゃない。
「みんな友達ですか?」
「うん、みんなじゃないけど」
俺はRに二人を紹介した。
彼がトイレに行ったとき、Cさんが話しかけてきた。
「私のこと、会社の人に知られたら駄目なのかと思っていました」
彼女だけではなく、二人とも、どうやら気を遣ってくれていたらしい。だけれど、誰かに何かを知られて困る関わりが俺にはなかった。
「Rは、俺たちが音楽やろうとしていることも知っているよ」

会計を済ませ、Rと店を出た。彼は、そのままネットカフェに行った。まだ電車がある時間だったけれど、今日は家に帰らないらしい。色々あるのだろう。

家に帰ってコーヒーを飲んでいるとCさんから着信があった。1時22分。珍しい、初めてじゃないか、なんだろう。

「あの、とあるヤカラがですね。家を知らないとしょんぼりしていまして」
「だから、隠していないってば」
「お酒買いました。飲みましょう」
「待て。待って。家は無理だよ。本当に無理なんだ。君たちがという意味じゃなくて、例外なく無理なんだ」
「家の前でいいから飲みましょう」
「明日、俺、早い」
「何時ですか? 私たちは休みです」
「7時。嘘じゃない」
「早っ! もうすぐ着きます」

俺はジャージのまま上着を羽織り、外に出た。

桃の缶酎ハイをおごってもらった。アパートの前にある公園で飲む。寒い。話の流れでCさんの家に行くことになった。俺はもう、学生のような飲み方をする年齢でもないのだが。彼らの後を付いていった。
「Cさん、こんなことは言いたくないのだけれど、こんな夜遅くにだね」
「相手は選んでいます」
「そうかもしれないけど」
「選んでいます」

あまりにピシャリとしていて、笑ってしまった。

「彼ら」は、この日記を読んでいない。だから正直に書こうと思う。

この夜、本当はCさんと話がしたかった。音楽の話。

もしかしたら店に来るかもしれないと思っていた。だけれど、Rが俺を誘ってくれた。どんな事情があったにせよ、せっかく誘ってくれたのだ、音楽のことを一度忘れてRとゲームを楽しもう、そう思った。Cさんはお店に来た。それはそれ、これはこれであった。Rと別れて店に戻るという選択肢もなかった。今日はそういう夜だ、俺が決めたから。
Cさんから電話があったとき「人の気も知らないで」と笑った。身勝手な物言いではあるけれど、そう思った。
俺は好意を隠さない傾向にある。自覚している。だからといって、彼らが俺の考えを察したとは思えない。彼女が俺に連絡してきたのは偶然だろう。そうだ、Kさんはこの日、電話をなくしていた。
Kさんも、俺にとっては大切な友人である。俺は、音楽の話をしなかった。三人で話したい内容を選んだ。たとえば、服の話。俺が服の話をするということ。俺のことを知っている人はどう思うだろうか。越川くんとしたことはある。が、それは参考にならない。
Kさんを一人残して先に帰るのもいかがなものか。彼らは俺の帰りたいオーラをしっかりと感じていた、解散したのは午前4時くらい、良い友人を持った。お前ら、覚えてろよ。

次の日、俺は寝坊しなかった。

後日、カウンターでKさんと一緒になった。

「こないだは、やってくれたな」
「何のことでしょう」
「忘れたとは言わせない」
「違うんですよ」

Kさんは、俺の勘違いを正した。俺は、KさんがCさんに電話を掛けさせたと思っていた。彼は電話を持っていなかったし、Cさんからの電話だったら出ると予測して。そうではなかった。

「夜も遅かったし、ほら、一応Cちゃんを家まで送ろうと思ったんですよ」
「うん」
「で、歩いているときに家を知らないって話になって」
「うんうん。隠していないけどね」
「Cちゃんが、私知っていますと」
「ん?」
「案内しますと言わんばかりで」
「う、うん」
「せっかくだからお酒を飲みましょうという話になって」
「……」
「家の前で乾杯して終わると思っていたんですけど、まさかあーなるとは」
「……」

主犯は、二人いた。

「少しだけ平気な様子でいよう」

午前3時頃に仕事を終えて、一度家に帰る。4時を待ち、バス停に向かう。羽田へ。たまには帰れと組まれた北海道出張。新千歳空港に到着したのが8時すぎ。機内では寝なかった、少し、眠い。

外で煙草を一本吸ってから電車に乗った。「快速エアポートは特急じゃないから普通乗車券でOK」という内容のアナウンスが流れている。席が空いていた。座る。向かい側に座った男の子は三人組だろうか。「長旅になるね」と言っていた。どこへ行くのだろう。一席空けた端に、もう一人の男。彼が厄介だった。

南千歳か、千歳か。忘れてしまったけれど何人かの客が新たに乗る。俺の右隣には女性が座った。眠ったら小樽に行ってしまうかもしれないと考えた俺はブラック・ラグーンの11巻を読んでいた。読み終わったので、ドリフターズを1巻から読み返した。

「ちょっといいですか!」

突然、隣の女性に男が声を掛けてきた。声は、だいぶん大きい。何事だ? 恐らく眠りかけていたのだろう、彼女は驚いていた。向かい側の端に座っていた男だと分かったのはしばらく経ってからである。男は、おそらく20代半ばから30代前半、格好は比較的いかつい。話している内容が若干支離滅裂で、目的が分からない。ナンパのような感じもするし、そうじゃない気もする。以下は原文ままではない。

「昨日、埼玉スーパーアリーナで××のコンサートを見てきてですね。××の電話番号知りたくないですか? 向かいに座っている彼が、あなたのこと好きなんです。彼と連絡先を交換してください」

酒に酔った感じではない。少なくとも、俺の知る酔っぱらいとは異なっていた。彼女は、やんわりと拒絶の意思を示していた。そりゃそうだ、なんなんだ、この人は。男は女性の前に立ったまま、お構いなしにしゃべり続ける。

タブレットをしまった。昨日の夜から働いている。うっすらヒゲが生えているし、煙草の匂いがするだろうし、ビールも二杯くらい飲んでいるし、可能であれば誰も俺には近寄りたくないだろうなという自覚はあった。だけれど、ほんの少しだけ、女性の方に身体を近づけた、お互いの腕が触れるように。普段だったら、絶対にしない。不愉快だろうから。想像通り、彼女は震えていた。彼が目を離した隙を狙い、腕で合図し、女性に携帯電話の画面をみせた。メモで打った文章。

「たぶん、襲ってはこないと思う」

画面を見た女性は小さくうなずいた。薬物だろうか? 朝っぱらから? いや、昼も夜も関係ないか。男はリュックからリストバンドを取り出し、女性に無理矢理渡した。

「コンサートで買ってきたんですよ。あげます。一生大事にしてくださいね。とても良いものだから」
「そんな大切なもの、いただけません。お返しします」
「いいんですいいんです。名前はなんていうんですか? そうですか、答えたくないですか。いいんですいいんです」

電車は動いている。前には男が立っている。逃げ場がない。彼女は、男を刺激しないように気をつけているように感じられた。俺はもう一度画面をみせた。

「札幌まで?」

首肯がもう一度返ってきた。二択。
仮に「お嬢さんが嫌がっているじゃないか」と言い、男の首根っこをつかまえて女性から遠ざけるとしたら。パソコン、壊れたら嫌だな、買ったばかりなんだ。眼鏡。眼鏡くらいだったら構わない。やるなら、停車する直前。じゃないと、他の人たちにまで飛び火してしまうかもしれない。被害の範囲が読めない、また、俺が自分の荷物を抱えた状態で男をつまみ出せるかどうかも微妙なラインだった。もう一つの方を選んだ。こっちの方が穏やかだ。怖いと思うけれど、もう少しだけ。
札幌駅の手前、苗穂をすぎたあたりで俺は席を立った。男は、女性の正面から左手前に移動していた。俺は、男とも女性とも目を合わせていない。棚の上に置いていたジャケットを着て、ふぁっきゅんトートを肩に掛ける。次で降りるから準備を早めに始めたように。男は俺の背後にいる。座っている彼女と立っている彼の間に、俺はいた。ライブの時は「無駄に大きくてすまん。ステージ見えにくいよね」と申し訳ない気持ちになっているけれど、この時だけは俺の横幅が役に立つはずだ。俺が立ったことで、彼女の左隣が空いた。男は向かい側に座っていた三人組の一人に声を掛ける。

「空いたよ! 席空いたよ! 彼女の隣。座りなよ!!」

今なら分かる。彼らも、おそらく巻き込まれたのだろう。動きはなかった。
「なんだよ、照れてんのかよ」
男がそう言ったかどうかは、覚えていない。覚えていないが、彼は女性の隣に座った。大丈夫、予定通り。その方が話しかけやすいよね。もうすぐ札幌駅に到着する。女性が席を立つ。俺は彼女の後ろを歩いた。男と女性の間にいる状態を常に保つ。

女性が降りてから俺も降りた。もう一人、心配していたサラリーマンがいた。リストバンドは彼が処分してくれた。我々が右と左を固める形になった。男は、付いてこなかった。

電車が走り出してから彼女に声を掛けた。

「怖かったね」
「はい‥‥」
「ありゃ怖いわ。早く忘れた方がいい」
「はい。ありがとうございます」
「俺、●●までだから。それじゃあね」
「本当にありがとうございます」
笑うの、あんまり得意じゃないけれど。笑って手を振った。じゃあね、バイバイ。

荷物をおろしてしまえばこっちのもんだ。もしも男が付いてきたら「ここは俺にまかせて先に行け」作戦に切り替えるつもりだった。煙草を一本吸って、俺は次の電車に乗った。札幌駅構内には、まだ喫煙所がある。最寄り駅から実家までの帰り道、青空の下、雪が降っていた。

寝て起きて夜。俺は蝦夷天酒場 夢助に行った。店主の真大さんは、元テキヤ。年齢は俺の七つ上、だろうか。店内は潔いまでに右寄りで、天ぷらがおいしいのに食べられるとは限らない面白い店だ。料理の腕は確か。おでん、姫ほっけ、卵焼き。全部おいしかった。普段は飲まない焼酎のお湯割りを頼む。俺は、麦よりも芋の方が飲みやすかった。酒々しくない。

「真大さんみたいにはできなかったけれど」
「頑張ったね」

これくらいやっていい

本編よりも先にあとがきを書いて公開するような、そんな幼稚な行為かもしれない。
だけれど、どうしても書きたかった。それくらいに彼の音楽は、彼の言葉は、鋭かった。

やってみたいと思いついたのがいつなのか、正確な記録は残っていない。おそらく、ふぁっきゅん夏の陣2018のどこかであるとは思う。

8月13日(月)

友達のCさんに「話したいことがある」と連絡した。お互いのスケジュールを調整し、25日に焼き鳥屋さんで待ち合わせる。ここは、彼女と知り合った店だった。
「歌ってもらえないだろうか?」
どうやってお願いしよう、どういう順番で話をしよう。まとまらなくて、結局、順番通りに話した。
「いいっすよ」
即答。

9月24日(月)

久し振りに、越川くんとお酒を飲む。楽しかったし、嬉しかった。冗談を口にすると応えてくれる。彼は、親切な人なのだ。KちゃんとJくんの話は別の機会に。忘れないよう、メモを残す。
「いじわるで速く叩いているのかと思った」
「小節をまたいでしまうから」
「分かった。たぶん、読んでほしいんじゃなくて読んでいいよって意味だ」
これで大丈夫。越川くんとは、真面目な話もした。
「あのね、録音にチャレンジしようと思う」
「うん」
「君にお願いした方が確かだということは分かっている。でも、それは違うと思う」
「うん」
「本当は、君に音源を送りつけてしまえばいい。そうすれば、とても簡単だ」
「送る方は簡単かもしれないけれど!」
君を頼る日があるなら、それはもっと先に訪れる。今じゃない。その時、俺はそう考えていた。
名残惜しかったけど、次の日、俺は日勤だった。彼もきっと仕事があるだろう。
「ありがとう、じゃあ、またね」
彼は、駅まで送ってくれた。駅の名前、思い出せない。行けば、きっと分かる。

9月27日(木)

Cさんと打ち合わせ。この時の話は、日記に書いている。
付け加える点があるとすれば、彼女が恋人に話をしていなかったということだ。後で知った。俺だけの感覚がずれていた。誰かに内緒話を押しつける行為は、可能な限り回避したい。軌道を修正する。

10月8日(月)

スタジオを借りて録音の練習をした。2時間があっという間にすぎた。準備にどれくらい掛かるのか。技術と経験以外に足りないものはないか。初挑戦なので下調べを兼ねた。

10月12日(金)

Cさんは勘を取り戻すために自主練を行った。
「思いのほか弾けなくなっていました。やべえっす。15日も練習することにしました」
スタジオを後にした彼女はそう言った。

10月14日(日)

8日と同様、一人でスタジオに行った。3時間。
宅録が可能であればそれが一番良いのだけど、俺の部屋は世界の終わりに近いレベルで荒れ果てているし、彼女の部屋はなるべく使いたくなかった。隣人問題もある。俺のアパートには俺しか住んでいないけれど、彼女の家はそうじゃない。

10月15日(月)

翌日の16日は休日申請を出して休みを確定させていたのだけれど、上司の心遣いで前日も休みになった。この日はCさんが2回目の自主練を行う日でもあった。
「そのへんをうろうろしていても邪魔じゃないなら、君が弾いているところを試しに録音してみてもいいだろうか?」
「うろうろOKです!」
そうか。一人で集中したい人もいるに違いないと案じたのだけれど、彼女は平気らしい。言葉通りに受け取り、甘えることにした。スタジオ代も、二人で払えば安くなる。俺はピアノが弾けない。二回行った録音練習は「猫踏んじゃった」で、音の数とか強さとか、不安要素しかなかった。

10月16日(火)

5時間。本来は、ピアノと歌の両方を録音する予定だったが、歌は次回ということに。
「せっかく休みを取ってくれたのだから」
彼女は何度そう言っただろう。何一つ気にすることはない。問題ない。俺は、Cさんが少しだけ怖かった。本人にも伝えた。そうか。集中している時、こういう表情になるのか。素敵だった。
「追い詰められていただけです」
彼女はそう笑ったけれど、本当にそうだろうか。Cさんと別れた後、俺は「たぶん間違えた」とつぶやいている。このことも、日記に書いている。

10月21日(日)

音源と感想のやりとりを幾度となく行っていたが「メッセージのやりとりでは伝えるのが難しいところがある」と言われた。焼き鳥屋さんで30分程打ち合わせ。
「二箇所あったんですけど、一箇所はもう直っている。直しました?」
「分からない」
「直しましたよね?」
「わ、分からない」
思い返せば、彼女との会話がきっかけとなり、俺の去年の目標は定まったのだ。知ったかぶりをしない。正直に答えた。

11月19日(月)

歌を録音。3時間。こちらは、ほぼ予定通りに終わった。おまけというわけではないけれど、彼女が演奏している姿も一度だけ録画した。
「も、もう忘れました。転調後、分からない!」
俺の姿も入り込んでいた、どのみち、本編では使えない映像になった。
「おなか、すいた!」
「ご飯を食べよう」
そうして、ピアノと歌の録音が無事終わった。肺と腎臓が痛かった。「俺多分長生きできない」siriに話しかけている。今は、大丈夫。

11月27日(火)

日勤。仕事が終わって、あーでもないこーでもないと音源のミックスを続けた。一応は形になった、と感じた。ピアノも歌も細かいところを含めると、それぞれおそらく10回以上触っている。俺が唯一断った編集は、ピアノの音量調整だった。小節単位で強弱をつける作業を俺は拒否した。「技術的にも心情的にもやりたくない」Cさんに伝えた。
24日、奇しくも俺は「感想を求めること」について考え、さらには他の方を巻き込んでいる。順番が逆だ。他の方を巻き込んだ後に、俺は感想を求めることについて考えたのだ。その節は、ありがとうございました。
俺の考えは変わっていない。感想とは、原則として善意が形になったものだ。つまり、感想を求めるという行為は善意を求める行為に近い。

だけれど、越川くんは俺にとっての例外だった。

彼だけは、別なのだ。何をしても良いという話ではない。そうではなくて、だけれど、別なのだ。

俺は、越川くんに音源を送った。

それは「できた!!」という報告ではなく「どう思う?」という問いだった。
「聞いた。ミックス前の音源はある?」
俺がどれくらい触ったのか、比較するためなのかなと最初は思った。違った。2時間後、音源が届いた。彼は、最初からミックスしてくれたのだ。

「これくらいやっていい」

その時は至らなかった言葉、今、思い浮かんだ言葉。それは、絶句だった。俺が遠慮して触れなかったところを、彼は容赦なく触っていた。
「どうやったらこうなんの?」
「知らないけど、適当に選んでいって」
越川くんからのプレゼントは二つ。一つは、音源。もう一つは言葉。そこから生まれたすべては、俺のものだ。彼が言ったわけじゃないし、どう思っているかなんて分からない。

「何、遠慮してんの? びびらなくていいよ」

繰り返す。これは俺の言葉だ、彼の言葉ではない。俺は遠慮していた。Cさんも越川くんと同じ音楽の人だ、俺は違う、びびっていた、逃げていた、俺は意見を言っていない、何も、言っていない。彼だって暇じゃない。「いや、時間があったから」と言うかもしれない。仮にそうだとしても持て余しているわけじゃないだろう。それなのに、やってくれた。
こんな形の応援を、俺は誰かにすることができるだろうか。厳しい人だとも思った。右辺を提示する、左辺はがんばれ。
「できるよ、がんばって」
とても嘘くさくて恥ずかしいのだけれど、事実だから書き残す。俺は越川くんのミックスを何十回と聴いた。笑った。なんだよ、これ。笑った。昔、とある人に言われた言葉。「そういうふうに笑うところが嫌い」分かっている。やってやる。

悩んだ結果、俺はCさんにも越川くんの音源を送った。伏せておくことが卑怯だと思ったから。俺は、きっとここにたどり着けない。関係ない。

12月1日(土)

俺は、Cさんと越川くんに音源を送った。
「越川くんみたいに格好良くはならなかった」
迷いもあった。これでいいのか? 合っているのか? 分からない。でも、答えてくれる人たちがいる。向き合ってくれる人たちがいる。彼女と彼、二人から返信があった。俺は、恵まれている。

12月4日(火)

夜勤。昼、Cさんと打ち合わせを行う。
そしてきっと、越川くんに聴いてもらう次の音源はギターが加わったものだ。公開する音源。二人を巻き込んで、できるだけのことをやって、仕上がった音源に俺のギターを加える。それは、今までの時間を台無しにするようなものになるかもしれない。それで良いと思っている。最初から決まっていることだから。Cさんにも伝えている。
「チューニングだけはさせてください!!」
俺は、彼女の悲鳴に応答しなかった。キッズ達に届いて欲しいと思って今日を迎えた。下手くそな人が関わっても良いのだということを、俺は伝えたい。

薄々気付いていたことではあるが、ここ数ヶ月、Cさんとは毎日のように連絡を取り合った。共有した時間も、合算すると恐ろしい。彼女は録音が終わった日に「次は何をやりましょうか」と言ってくれた。迷ったけど、これも言葉通りに受け取った。あなたとやる音楽は面白かった、そんなふうに言ってくれた気がした。にわかには信じがたいが、決めたことだ。そのまま受け取った。さあ、次は何をやろうか。実現するかどうかは、分からない。何より、まだ終わっていない。

夜だったか、朝だったか。忘れてしまったけれど、夢をみた。病院。入院している彼女に音楽を聴いてもらった。イヤホン。「頑張った」彼女は感想を言ってくれただろうか、覚えていない。「違う。そういうんじゃない。友達なんだ。俺、友達がいるんだよ」彼女は、どんな表情だっただろう。

「くわえ煙草の煙が、ちょっとしみたみたいに」

「諦める」という言葉に「決めつける」という言葉を紐付けることが多い。
つまり、諦めた人に対して「決めつけるのはまだ早い」と抗議することが多いという意味だ。なんだかそう言う俺自身が何かを決めつけているような気がしないでもないけれど「たぶんまだ終わっていない」と意見し、そして、どうして終わっていないと思ったのか、その理由を伝える。
「諦める」のすぐ近くには「知る」という言葉もある。
「決めつける」と「知る」は、俺の感覚では、ほぼ正反対の意味を持つ。決めつけるのは知らないからだし、知っている人は決めつけない。
これ、仏教の話か?
俺は、諦めたのかもしれない。仕事の話ではない。人との関わりの話だ。
どうにもならないと決めつけたのか。それとも、知ったのか。

思えば、とある友人から「決めつけない方がいいよ」と助言されたことがある。その時、俺は肯定も否定もしなかったけど実は「いやあ、でも無理だろ、これ」と思っている。

これも、前に書いたかもしれないけれど、俺は抗う人が好きだ。憧れている。

物語シリーズの阿良々木くんも、ピーチボーイリバーサイドホーソンも抗っていた。無理ゲーをひっくり返してきた。大好きだ。

いやあ、でもなあ。

「つまり犯人は僕自身なのだっていうのはもう何度目のオチだ」

たぶん、悪い酔い方をした。これが結論だと思う。
普段、まわりにいる人たちがどう感じているのかは分からないけれど、絡み酒にならないよう、自分なりに注意している。かつて父親が酒を飲んでいた頃、比較的ひどい状況だったから。兄貴と俺は、酔っている父を軽蔑した。暴力を受けたことはない。
父の友人が言っていた。
「お酒さえ、飲まなければ」
昔の話だ。父が酒をやめて十年くらい経っただろうか、二十年を過ぎてはいないと思う。

10月16日は俺にとって有意義な一日だった。反省点もある。もっと、どっしりと構えていたかった。次に活かす。
23時前に会計を済ませ、友人や知人に「またね」と挨拶して居酒屋を出る。今日もたくさん話した、聞いた、笑った。おそらく、俺は誰に対しても嫌な絡み方をしていないと思う。
アパートまでの帰り道を歩いていると涙が出てきた。なんだこれ、意味が分からん、どうして泣いているんだ、いきなりすぎるだろ。
「甘えることができる友達が二人いる」
一時間くらい前に自慢したばかりだった。だから、仮に状況が悪化しても大丈夫だ、問題ない。二人の内のひとりを思う。
「俺、たぶん間違えた」
独り言。煙草を吸う余裕もなかった。立ち止まってはいないと思う。誰ともすれ違わなかった。
最近、なんだか涙もろくなったような気がしていたけど、これは違う。俺にとっては珍しいケースだ。理由を説明することができない。間違ったから泣いているのか、泣いていることが間違いなのか。どっちだ、分からない。

翌日、音源を聴いてもらった友達から返信があった。
「○○と××の間を1拍くらい、△△と□□の間を、たぶん3拍くらいあけてほしいです!」
お、おう。任せろ。
1拍‥‥。小学校か中学校で習ったのに、なんだっけ。いや、待てよ。俺、教えてもらったことがあるぞ。記憶をたどる。俺は、越川くんから教わっている。

何をやっているかはわからなかったけど。
こないだ友だちの部屋にあそびにいって、友だちはPCで曲を編集していて、不意に自分の腕時計をみて、時間を数え始めた。1、2、3…。11秒だったかな。
パソコンに触れながら秒を数えることなんて、僕はしたことがないからその行為がとても新鮮に思えて、萌えた。
(2005.7.22)

昔の、俺の日記。インターネットアーカイブに残っていた。当時、日記を読んだ越川くんがメールを書いてくれた。

11秒じゃなくて、11拍目までの時間を計ったんだよ。10拍を数えて(1拍目から数えるから11拍目まで)、その時間を計ることで、1拍の時間(10拍10秒だったら、その10分の1で1秒)がわかる。エフェクターでディレイを使うときなんかに使える技だよ。
(2005.7.24 1:16)

これだ!!!
俺は言われた通りにタブレットのストップウォッチで時間を計った。念のため二回、違うところで。割り算すると、結果は一緒だった。この曲の1拍は0.625秒。行けるぞ。いつも助けられている。ありがとう。

後日、テンポについて調べていた俺はふと思った。
楽譜には「♩=96」と書いてある。これはつまり60秒間に4分音符が96個入るということだから‥‥60割る96‥‥。秒数を数えなくても‥‥。やだね、もう。

「空回りのペダルみつめて」

一般論として、俺は誰かと何かをやろうとしたとき、ほとんどの場合においてうまくいかなかった。それは、形にならなかったという意味である。
それでもまだ懲りていない。やりたいことが先にあって、自分ひとりで実現可能か否かを考える。難しい。そんなとき、友達の顔が浮かぶ。
考えながら書いている。先にあるのは、やりたいことなのだ。さっき書いた。だけれど、それがいつの間にか、この人と一緒にやってみたいという気持ちに変わっていた。

音楽がやりたいと思った。

しかし待てよ、と俺は考える。友達だったら、彼女だったら、ひとりで実現可能だ。
これ、俺いらなくね?
答えは、彼女と話しているときに降ってきた。
「分かった。俺はキッズ達に夢を与える演奏ができるよう、頑張る」
彼女は「キッズ」と笑った。
俺の身近にある音楽は、上手な人たちが一緒にやっているものが多い。だからといって、下手くそな人が上手な人と一緒にやっちゃいけないというルールはない。一緒にやっても良いということを伝えたい。理由が定まって迷いが消えた。
「たぶん、君の演奏は空白を大切にしたものになると思う」
「はい」
「俺は、そんな空白を台無しにするような演奏を目指す」
「本当に邪魔だったら言いますからね!」

9月11日、彼女から連絡があった。

「どっちかの家で一度打ち合わせをしたいのですが」
「俺の家は駄目だ。本気で汚い。もはや、公害といって良い」
「私の家も、そんなに綺麗なわけじゃないけど」
「レベルが違う。見なくても分かる」

むしろ、俺の部屋より屋外の方が綺麗だ。この町は綺麗な方だと思う。東の一部は汚いけれど、西側は比較的、綺麗だ。

スケジュールを合わせるのが難しく、27日、俺が出勤する前に打ち合わせを行うことになった。前日の26日、珍しいことに俺は日勤のみだったのだが、夜に音を出すのは控えた方が良いと考えた。この日は焼き鳥屋さんで一緒にお酒を飲んだ。俺の方から誘った。雨が強かった。共通の友人からも連絡があった。3人でカウンターに座った。恋人との話を聞いた。鍋の汁はどこに消えたのか? ミステリの要素はない。それから更にもう一人増えて、少しだけ騒がしい夜になったのだけれど、それはまた別の話だ。

翌日の約束は午前10時半だった。「11時半でも良いですか? 二度寝してしまって」というメッセージが届いた。眠い。「12時でも良いですか」と返した。眠い。俺も二度寝した。12時5分にインターホンを鳴らした。

64鍵のキーボードに、持ってきたアンプをつないだ。彼女は楽譜を指で差す。
「ここなんですけど」
「‥‥‥‥」
「あの‥‥楽譜‥‥読めない?」
「雰囲気しか分からない」
キーボードを弾いてくれた。それなら分かる。話しながら、俺は自分が緊張していることに気がついた。理由を考える。専門外の話をしているからだろうか。もしくは、酒を飲んでいないからか? 思えば、俺は彼女とシラフで会ったことがない。まったくないわけではないけれど、合計時間はおそらく30分以下だろう。率直な言葉で伝える。
「俺、緊張しているみたいです」

せっかく録音するのだから、64鍵ではなく88鍵でやりたいと彼女が言った。ならばスタジオだ。スタジオに行こう。ピアノは、というか、ピアノも、というか。録音が難しいらしい。色々とyoutube先生に教わっているところだが、うまくいくかどうかはやってみないと分からない。

別れた後、彼女にメッセージを送った。

「さっきは言い出せなかったんだけど、スタジオ代、8:2ね」
「5:5です」

分かっている。彼女がそう答えることは分かっていた。

「ほとんど全部、俺の都合だから。もし、君がピアノを弾いて楽しいと思ったなら、その分の代金は発生する。それが2」
「せめて3」
「成立」

だから、俺は最初に7:3と言わなかった。彼女はどうだろう。勘の鋭い人だから、彼女も分かっていたのかもしれない。

「それに、ひとりで練習に行くと言っていたじゃないか。その時のお金は君が払うわけだし」

後日、俺は気付く。一人で練習に行くのは彼女だけではなかった。俺も録音の練習をしなくてはならない。「せーの」で始められるほど、詳しくないのだから。

「――っていう話があってね」

週末の朝、ビールを飲みながら同僚に話を聞いてもらった。
「どこで会ったんですか?」
「彼女の部屋」
「え」
「え?」
「彼氏さんは」
「仕事」
「え」
「いや、やましいことは何もないよ。隠してもいない」
「それです」
「それ?」
「それが、緊張していた理由です。そりゃ緊張しますよ」
「お酒、関係ない?」
「ないです」
「そういうもんか」

「春を摘んだこと、夏を浴びたこと、秋を感じたこと、僕のことを」

歌はこの後「忘れないでくれ」と続く。

俺は「忘れないでほしい」と相手に対してあまり思わない。他方、自分が「忘れたくない」と望むことはよくある。
この感覚は、お店に行く時にもあらわれている。コンビニ、そば屋、居酒屋、喫茶店。バー、小料理店。食べたり飲んだりしてばかりだけれど、ほとんどの場合において「初めまして」の気持ちで店に行く。俺のことを覚えていなくて良い、俺のことを知っている人がいなくても良い。そう考えているのだと思う。
もしかしたら、転ばぬ先の杖理論に基づいた感覚かもしれない。つまりは「いつもの」の真逆。仮に「いつもの」と何かを注文して、相手が認識しなかったらそれはちょっと恥ずかしい。書いていて思ったのだが、俺は誰かに対して「いつもの」と言ったことがない。俺が買う煙草を用意してくれるコンビニの店長やビールを持ってきてくれる居酒屋の店員はいるけれど、必ず俺は注文をするという心の準備をしている。

もちろん、家族や友達と会った時に「誰だっけ?」と思われたら、少し寂しい。普段は、忘れていても構わないが顔をみたら思い出してほしいと考えるのは、わがままだろうか。

だから、自分のことを覚えてもらいたいという気持ちで会いに行っているわけではなかった。その日の俺は、いつもと違う格好だった。Tシャツとビーチサンダルではなく、スーツを着ていた。「誰だか分からなかった」そう言われた俺は「会社に行く前に寄ったから」と答えた。

「仕事、頑張れい!!」

バシッと右腕を叩かれた。

後になって思う。

俺が誰なのか分からなかったのは、格好が違ったからで、いつもと同じ格好であれば、分かったということではないか。それは、俺のことを覚えているということではないか。
俺がどのように感じたのかを書かなくては、この時の気持ちを、いつかは忘れてしまうだろうか。忘れたくない。たぶん大丈夫。

「帰りたくなったとき、さよならは言えるかな」

7月28日の土曜日、天気予報は台風。結果的に、埼玉や東京は直撃を受けなかった。
Kさんが勤めるバーに行く。作ってもらいたいお酒があった。
「今日、お客さん来た?」
「来るわけないでしょう! こんな夜に来る客なんてね、バカっすよ、バカ」
「俺も客‥‥」
一杯のビールを飲み終える頃、バーの扉が開いた。客がきたのだ。
「あの、小学生の子供がいるんですけど大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですけど、バーでよろしければ」
Kさんの応答は、日本語が少しおかしかったと思うのだけれど、彼がどのような言葉を選んだのか忘れてしまった。惜しいことをした。
新たな客が三人、カウンターに座った。男性はマティーニを、女性はジントニックを。子供にはクランベリージュースを。彼が飲みたい酒はグレンリベットの12年らしいが、あいにくの品切れだった。18年とボトラーズはあるけれど、Kさんは強く勧めなかった。
彼らは一杯ずつ飲んで店を出た。
「俺もあんなふうに飲みたい。こういうお店はそういう所だと思う」
俺の意見は黙殺された。

今年の夏、俺が参加した+α/あるふぁきゅん。のリリースイベントをまとめてみた。

2018.05.27 大宮アルシェ 1Fイベントステージ
2018.06.03 ダイバーシティ東京プラザ 2Fフェスティバル広場
2018.06.09 タワーレコード横浜ビブレ店
2018.07.01 ダイバーシティ東京プラザ 2Fフェスティバル広場
2018.07.07 HMVエソラ池袋
2018.07.08 大宮アルシェ 1Fイベントステージ
2018.07.14 タワーレコード梅田NU茶屋町店 6Fイベントスペース
2018.07.21 HMVエソラ池袋
2018.07.22 タワーレコード川崎店
2018.07.29 アリオ橋本 アクアガーデン
2018.08.18 Space emo池袋

29回の内、11回。出勤前に行ったイベントもある。一方、全国ツアーは6都市の内4つ。

2018.06.23 仙台 LIVE HOUSE enn
2018.07.15 大阪 北堀江club vijon
2018.07.16 名古屋 R.A.D
2018.07.28 東京 吉祥寺CLUB SEATA

岡山と福岡のライブは断念した。「行けなくはない、ないが」と悩んだ結果だった。
CDに購入特典があるように、全国ツアーにも特典がついてくる。そして、すべてのライブに参加した人には『中打ち上げ参加券』が配布される。打ち上げ? 打ち上げだと!?

だけれど、なんか違うよな。

打ち上げに参加したいから彼女のライブに行くわけではない。話がそれるかもしれないけど、これは外でお酒を飲む理由にも似ている。家を出れば知り合いは増える。だけれど、俺は友人や知人を求めてお店に行くわけではない。結果が目的ではないというか。ふぁっきゅんのイベントも一緒だった。
ライブ参加者に配られた御朱印帳を、Kさんに見てもらう。マスは6つ。ひとつライブに行くごとに、ふぁっきゅんが拳で印を押す。
「なんですか、この中途半端な奴は。俺が残りふたつ押してあげますよ」
「や、やめろ」
「ちょっと待っていてください」
「やめろー!」
半端でいいんだ。半端がいいとは言わないけれど、半端でいい。

そういうわけで、Kさんにお酒を作ってもらった。「ピンク色のお酒がいい」と言った。何杯目か忘れてしまったけれど「ああ、そういえば」と彼が言う。
「腐りかけの桃があるんですけど、使っても良いですか?」
「熟した桃って言えばいいのに‥‥飲むよ」
「たしかに。今度からはそう言います」

たぶん、嘘だ。

Kさんのお店を訪れる数時間前、俺は吉祥寺にいた。ふぁっきゅんツアーのファイナル。事前の台風情報が凶悪だったせいで、泣く泣く諦めた人もいた。親に止められたり、帰りの飛行機が欠航になるリスクがあったり。本当に、辛かったと思う。
吉祥寺のライブのみ、彼女はバンドの人たちと一緒だった。ギター2本、ベース、ドラム、キーボード、それとマニピュレーター、かな。間違っているかもしれない。ゲストもいた。バイオリニストの石川綾子さん。
ふぁっきゅんの歌が赤い火なら、石川さんの演奏は青い炎だった。分かりにくい、言葉を替える。ふぁっきゅんがラオウなら石川さんはトキだった。少し、分かりやすくなった。
拝啓ドッペルゲンガーの演奏中、バイオリンの弓に張られた毛が切れた。

大阪のライブでは、ゴーストルールを歌う彼女に泣かされたが、東京では天樂にやられた。音楽を聴いていて泣くことはあまりなかったのだが、俺も年をとったのだろうか。
前にも同じ感想を書いているけれど、天樂は特別に好きな歌というわけではない。だけれど、新潟で歌う彼女に、俺は見とれた。透明な基礎。東京の天樂は、ちょっとまだ、なんと言ったら良いのか分からない。後日、本人に感想を伝える機会があった。
「東京では、天樂で泣いちゃいました」
「天樂!?」
聞き返されて、タイトルの読み方を間違えたのだろうかと不安になった、が、そうではなかったらしい。
「なぜか分からないんですけど、評判良いんですよ。私はまだ録画映像を見てなくて」
隣にいたマネージャーの方も同意してくれた。
「良かったよね、天樂」
その後、俺は思いついた言葉を口走っている。それが適した言葉だったのか否か、自信はない。だけれど、本人には言っていないがこうも考えている。神さまは、神懸からない。人だから到達できるのだ。

歌を聴いていて、真ん中にいる人なんだなと感じた。彼女に限らず、ボーカルとはバンドの真ん中にいる人だと俺は思っていた。不十分だったのかもしれない。
ふぁっきゅんは、ライブハウスの真ん中にいた。それは物理的な座標の話ではない。バンドがあって、彼女がいて、客がいるという意味だ。楽器の演奏と客の熱。中心にボーカル。その他の分野においてもセンターという言葉が使われるけれど、同じことだろうか。また、会場の規模が変わっても、俺は同じように感じるだろうか。数千人になっても、数万人になっても。分からない。俺には立てない場所だった。きっと潰されてしまう。そうか、だから。

これが、動機か。

「卒業証書には書いてないけど、人を信じ人を愛して学んだ」

ツイッターとか、フェイスブックとか。俺はあちこちで書き散らかしているけれど、こことその他に小さな違いがあることに気付いた。酒を飲まないで書くのはここだけだ。今は酒を飲んでいる。

2017年の8月15日、午前1時過ぎ。母親が死んだ。癌だった。

8月の上旬、兄貴からメールが届いた。
「親父もお袋も、心配を掛けたくないと言ってお前に連絡しようとしない。でも、全然ご飯とか食べられなくて、体重も30キロ台で。うまく言えないんだけど、帰ってこれないか?」
事情を話せば休みを取ることはできる。金は、金もなんとかなる。
「任せろ」
兄貴に返事を書いた。俺の帰省を知った父親は「金、大丈夫か」という連絡を寄越してきた。「心配するな。ちょうど帰ろうと思っていた」と返した。上司には「夏休みが欲しいです」と言い、休日申請を出した。母親のことは、言えなかった。
元々は、夜の便を取っていたのだけれど、状況が深刻であるという連絡が兄貴からあった。マジかよ。時間の変更が利かない予約だった。キャンセル料を払い、朝の便を予約し直した。兄貴には「変更できた。心配するな」と嘘をついた。
8月12日、新千歳空港から直接病院に向かった。Tシャツとビーチサンダル。寒かった。夏休みだから、スーツは置いてきた。
「意識は、ほとんどない。夢をみている感じって言えばいいのかな」親父に言われた。3月、俺は仕事で北海道に来ている。嘘だろ。母ちゃん、あんなに元気だったじゃないか。

「驚いたでしょう」

叔母に言われてうなずいた。叔母は「色々とありがとう」と母ちゃんに言った。母ちゃんは、意識が混濁していたけれど、叔母に何かを言った。叔母はうなずいた。通じている。俺は尊敬した。見舞いに来てくれた人たち、皆がしょんぼりしていた。
母ちゃん、俺は家族だから、息子だから、良いよね。神妙な感じじゃなくて良いよね。泣かなかった。昨日、埼玉でひとり沢山泣いたから。みんなといるときは泣かなくて良いよね。親戚の人、母ちゃんの友達、俺は笑いながら話した。叔母と母ちゃんが揉めたことを俺は知っている。祖母が原因だった。叔母は言う。
「あなたのお母さんは、引きずらない人、明るい人、とても凄い人」
「母親も父親も、あんまり友達がいないから。だから感謝しています」
母ちゃんが寝ているベッドの両脇に、俺と兄貴が立っていた。しかし兄貴太ったなあ。俺も太ったけど、格が違う。坊主頭だし。岩かと思った。

我々がうるさかったのか、あるいは、痛み止めが切れたのか。朦朧としていた母ちゃんが俺らを認識した。目を見開いたのだ。驚く事じゃないよ。母ちゃん、死にそうだって聞いたから。休みくらい取れるよ。というか、もっと早く言えよ。

兄貴と俺を順番にみた母ちゃんに叔母は言う。
「二人とも大きくなって。自分の子供がこんなに大きくなるなんて思わなかったでしょう?」
母親はうなずいた。俺もそう思う。特に兄貴。ちょっと痩せた方がいいんじゃないか。母ちゃんは俺たちに「居間かい?」と訊いた。「いや、違うよ」と答えた。知らなかった。母ちゃん、居間が好きだったんだ。

たぶんだけど、母ちゃんが俺のことを認識したのはこの時だけである。薬が効いたのだろうか、また眠って、きっと痛くないまま、死んだ。お休みだった主治医も夜遅くに来て、掌を合わせてくれた。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。

母ちゃんが死んだ。

母ちゃん、俺、ビーサンだよ。葬式どうするんだよ。服ねーよ。

母ちゃんの兄弟である叔父と話していて思った。俺と叔父の冗談は質が似ている。血、つながっているんだ。通夜の時、母ちゃんの友達と話した。ボロボロ泣いていた。笑い飛ばした。何、泣いているんですか。俺も泣いた。笑いながら泣いた。ごめん、無理だ。こんなに早く死ぬなんて思わなかったんだ。俺を育ててくれたのは親父と母ちゃんとばあちゃんだ。ばあちゃんは88歳まで生きた。母ちゃんは20年早い。早いよ。ばあちゃんも癌になったけど、何度も生還したじゃないか。一回や二回の転移で死ぬんじゃねーよ。嘘だ。俺は嘘をついている。

9日後には一周忌がある。元々、休みをいただくつもりだったけれど、ボスが気を遣ってくれて北海道出張が組まれた。家族や親戚と笑ってご飯を食べたいからこの日記を書いている。今の内に泣いておく。

俺の記憶が確かなら母ちゃんは赤平高校を卒業している。同校は、2015年に閉校し、2016年に校舎が解体されたらしい。母ちゃんがどんなことを勉強して、どんな人と出会って、どんな人を好きになって、どんなことを思ったのか。もっともっと聞きたかった。あまり、昔の話をしない人だったから。俺が20代の頃、こっぴどく振られた時に「色々あるよ。私も色々あった」と話してくれたことは覚えている。

俺は、上手に生きることができていない。もっとうまくやれた。できなかった。仏前で線香を上げる度に「ごめんなさい」と謝っている。一年後か二年後か、五年後か。あとどれくらい生きられるか分からないけれど「うまくいったよ、ありがとう」と母ちゃんに報告ができるように、もうちょっと頑張ってみる。

母ちゃんから届いた最後のメールは、2017年の7月5日、午前6時11分だった。
「何処にいるの? 今回の台風は無事ですか?」
俺は7時36分に返事を書いている。
「今週は埼玉で来週から大阪。昨日は日勤だったから、家で寝ていたら台風通り過ぎたよ」
母ちゃんからの返信は「良かった」だった。

そういうわけで、この日記は明日からまた+α/あるふぁきゅん。大好き日記に戻ります。

母ちゃん、ありがとう。俺、まだ頑張れるよ。やってみるよ。