「空回りのペダルみつめて」

一般論として、俺は誰かと何かをやろうとしたとき、ほとんどの場合においてうまくいかなかった。それは、形にならなかったという意味である。
それでもまだ懲りていない。やりたいことが先にあって、自分ひとりで実現可能か否かを考える。難しい。そんなとき、友達の顔が浮かぶ。
考えながら書いている。先にあるのは、やりたいことなのだ。さっき書いた。だけれど、それがいつの間にか、この人と一緒にやってみたいという気持ちに変わっていた。

音楽がやりたいと思った。

しかし待てよ、と俺は考える。友達だったら、彼女だったら、ひとりで実現可能だ。
これ、俺いらなくね?
答えは、彼女と話しているときに降ってきた。
「分かった。俺はキッズ達に夢を与える演奏ができるよう、頑張る」
彼女は「キッズ」と笑った。
俺の身近にある音楽は、上手な人たちが一緒にやっているものが多い。だからといって、下手くそな人が上手な人と一緒にやっちゃいけないというルールはない。一緒にやっても良いということを伝えたい。理由が定まって迷いが消えた。
「たぶん、君の演奏は空白を大切にしたものになると思う」
「はい」
「俺は、そんな空白を台無しにするような演奏を目指す」
「本当に邪魔だったら言いますからね!」

9月11日、彼女から連絡があった。

「どっちかの家で一度打ち合わせをしたいのですが」
「俺の家は駄目だ。本気で汚い。もはや、公害といって良い」
「私の家も、そんなに綺麗なわけじゃないけど」
「レベルが違う。見なくても分かる」

むしろ、俺の部屋より屋外の方が綺麗だ。この町は綺麗な方だと思う。東の一部は汚いけれど、西側は比較的、綺麗だ。

スケジュールを合わせるのが難しく、27日、俺が出勤する前に打ち合わせを行うことになった。前日の26日、珍しいことに俺は日勤のみだったのだが、夜に音を出すのは控えた方が良いと考えた。この日は焼き鳥屋さんで一緒にお酒を飲んだ。俺の方から誘った。雨が強かった。共通の友人からも連絡があった。3人でカウンターに座った。恋人との話を聞いた。鍋の汁はどこに消えたのか? ミステリの要素はない。それから更にもう一人増えて、少しだけ騒がしい夜になったのだけれど、それはまた別の話だ。

翌日の約束は午前10時半だった。「11時半でも良いですか? 二度寝してしまって」というメッセージが届いた。眠い。「12時でも良いですか」と返した。眠い。俺も二度寝した。12時5分にインターホンを鳴らした。

64鍵のキーボードに、持ってきたアンプをつないだ。彼女は楽譜を指で差す。
「ここなんですけど」
「‥‥‥‥」
「あの‥‥楽譜‥‥読めない?」
「雰囲気しか分からない」
キーボードを弾いてくれた。それなら分かる。話しながら、俺は自分が緊張していることに気がついた。理由を考える。専門外の話をしているからだろうか。もしくは、酒を飲んでいないからか? 思えば、俺は彼女とシラフで会ったことがない。まったくないわけではないけれど、合計時間はおそらく30分以下だろう。率直な言葉で伝える。
「俺、緊張しているみたいです」

せっかく録音するのだから、64鍵ではなく88鍵でやりたいと彼女が言った。ならばスタジオだ。スタジオに行こう。ピアノは、というか、ピアノも、というか。録音が難しいらしい。色々とyoutube先生に教わっているところだが、うまくいくかどうかはやってみないと分からない。

別れた後、彼女にメッセージを送った。

「さっきは言い出せなかったんだけど、スタジオ代、8:2ね」
「5:5です」

分かっている。彼女がそう答えることは分かっていた。

「ほとんど全部、俺の都合だから。もし、君がピアノを弾いて楽しいと思ったなら、その分の代金は発生する。それが2」
「せめて3」
「成立」

だから、俺は最初に7:3と言わなかった。彼女はどうだろう。勘の鋭い人だから、彼女も分かっていたのかもしれない。

「それに、ひとりで練習に行くと言っていたじゃないか。その時のお金は君が払うわけだし」

後日、俺は気付く。一人で練習に行くのは彼女だけではなかった。俺も録音の練習をしなくてはならない。「せーの」で始められるほど、詳しくないのだから。

「――っていう話があってね」

週末の朝、ビールを飲みながら同僚に話を聞いてもらった。
「どこで会ったんですか?」
「彼女の部屋」
「え」
「え?」
「彼氏さんは」
「仕事」
「え」
「いや、やましいことは何もないよ。隠してもいない」
「それです」
「それ?」
「それが、緊張していた理由です。そりゃ緊張しますよ」
「お酒、関係ない?」
「ないです」
「そういうもんか」