「卒業証書には書いてないけど、人を信じ人を愛して学んだ」

ツイッターとか、フェイスブックとか。俺はあちこちで書き散らかしているけれど、こことその他に小さな違いがあることに気付いた。酒を飲まないで書くのはここだけだ。今は酒を飲んでいる。

2017年の8月15日、午前1時過ぎ。母親が死んだ。癌だった。

8月の上旬、兄貴からメールが届いた。
「親父もお袋も、心配を掛けたくないと言ってお前に連絡しようとしない。でも、全然ご飯とか食べられなくて、体重も30キロ台で。うまく言えないんだけど、帰ってこれないか?」
事情を話せば休みを取ることはできる。金は、金もなんとかなる。
「任せろ」
兄貴に返事を書いた。俺の帰省を知った父親は「金、大丈夫か」という連絡を寄越してきた。「心配するな。ちょうど帰ろうと思っていた」と返した。上司には「夏休みが欲しいです」と言い、休日申請を出した。母親のことは、言えなかった。
元々は、夜の便を取っていたのだけれど、状況が深刻であるという連絡が兄貴からあった。マジかよ。時間の変更が利かない予約だった。キャンセル料を払い、朝の便を予約し直した。兄貴には「変更できた。心配するな」と嘘をついた。
8月12日、新千歳空港から直接病院に向かった。Tシャツとビーチサンダル。寒かった。夏休みだから、スーツは置いてきた。
「意識は、ほとんどない。夢をみている感じって言えばいいのかな」親父に言われた。3月、俺は仕事で北海道に来ている。嘘だろ。母ちゃん、あんなに元気だったじゃないか。

「驚いたでしょう」

叔母に言われてうなずいた。叔母は「色々とありがとう」と母ちゃんに言った。母ちゃんは、意識が混濁していたけれど、叔母に何かを言った。叔母はうなずいた。通じている。俺は尊敬した。見舞いに来てくれた人たち、皆がしょんぼりしていた。
母ちゃん、俺は家族だから、息子だから、良いよね。神妙な感じじゃなくて良いよね。泣かなかった。昨日、埼玉でひとり沢山泣いたから。みんなといるときは泣かなくて良いよね。親戚の人、母ちゃんの友達、俺は笑いながら話した。叔母と母ちゃんが揉めたことを俺は知っている。祖母が原因だった。叔母は言う。
「あなたのお母さんは、引きずらない人、明るい人、とても凄い人」
「母親も父親も、あんまり友達がいないから。だから感謝しています」
母ちゃんが寝ているベッドの両脇に、俺と兄貴が立っていた。しかし兄貴太ったなあ。俺も太ったけど、格が違う。坊主頭だし。岩かと思った。

我々がうるさかったのか、あるいは、痛み止めが切れたのか。朦朧としていた母ちゃんが俺らを認識した。目を見開いたのだ。驚く事じゃないよ。母ちゃん、死にそうだって聞いたから。休みくらい取れるよ。というか、もっと早く言えよ。

兄貴と俺を順番にみた母ちゃんに叔母は言う。
「二人とも大きくなって。自分の子供がこんなに大きくなるなんて思わなかったでしょう?」
母親はうなずいた。俺もそう思う。特に兄貴。ちょっと痩せた方がいいんじゃないか。母ちゃんは俺たちに「居間かい?」と訊いた。「いや、違うよ」と答えた。知らなかった。母ちゃん、居間が好きだったんだ。

たぶんだけど、母ちゃんが俺のことを認識したのはこの時だけである。薬が効いたのだろうか、また眠って、きっと痛くないまま、死んだ。お休みだった主治医も夜遅くに来て、掌を合わせてくれた。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。

母ちゃんが死んだ。

母ちゃん、俺、ビーサンだよ。葬式どうするんだよ。服ねーよ。

母ちゃんの兄弟である叔父と話していて思った。俺と叔父の冗談は質が似ている。血、つながっているんだ。通夜の時、母ちゃんの友達と話した。ボロボロ泣いていた。笑い飛ばした。何、泣いているんですか。俺も泣いた。笑いながら泣いた。ごめん、無理だ。こんなに早く死ぬなんて思わなかったんだ。俺を育ててくれたのは親父と母ちゃんとばあちゃんだ。ばあちゃんは88歳まで生きた。母ちゃんは20年早い。早いよ。ばあちゃんも癌になったけど、何度も生還したじゃないか。一回や二回の転移で死ぬんじゃねーよ。嘘だ。俺は嘘をついている。

9日後には一周忌がある。元々、休みをいただくつもりだったけれど、ボスが気を遣ってくれて北海道出張が組まれた。家族や親戚と笑ってご飯を食べたいからこの日記を書いている。今の内に泣いておく。

俺の記憶が確かなら母ちゃんは赤平高校を卒業している。同校は、2015年に閉校し、2016年に校舎が解体されたらしい。母ちゃんがどんなことを勉強して、どんな人と出会って、どんな人を好きになって、どんなことを思ったのか。もっともっと聞きたかった。あまり、昔の話をしない人だったから。俺が20代の頃、こっぴどく振られた時に「色々あるよ。私も色々あった」と話してくれたことは覚えている。

俺は、上手に生きることができていない。もっとうまくやれた。できなかった。仏前で線香を上げる度に「ごめんなさい」と謝っている。一年後か二年後か、五年後か。あとどれくらい生きられるか分からないけれど「うまくいったよ、ありがとう」と母ちゃんに報告ができるように、もうちょっと頑張ってみる。

母ちゃんから届いた最後のメールは、2017年の7月5日、午前6時11分だった。
「何処にいるの? 今回の台風は無事ですか?」
俺は7時36分に返事を書いている。
「今週は埼玉で来週から大阪。昨日は日勤だったから、家で寝ていたら台風通り過ぎたよ」
母ちゃんからの返信は「良かった」だった。

そういうわけで、この日記は明日からまた+α/あるふぁきゅん。大好き日記に戻ります。

母ちゃん、ありがとう。俺、まだ頑張れるよ。やってみるよ。