「路地裏の天井、どす黒い線が空を切り裂いている」

三日間くらい、同じ設定の夢をみていた。もしくは、覚えていた。人や場所からこれは大宮の夢なのだろうと推測する。

夢は片付けのようなものであるとどこかで習ったか、本で読んだ。記憶を整理するプロセス。その他、願望が形になる場合もあるらしい。俺がみていた夢はどちらなのだろう。

夢が記憶の整理であるなら、きっとその作業は並列処理だろう。そうでなくては変な夢をみない。印象の強弱が原因かもしれないけれど、実際に起きたことを『思い出す』という夢を、俺はあまり覚えていない。

たとえば『誰かと話していた』『柏餅を食べた』『働いた』これら三つの記憶が『誰かと柏餅をつくる仕事をしていた』という夢になったりするのではないか。実際はもっと複雑で、結果、わけの分からない夢になるのではないか。

一方、記憶の整理ではなく願望が形になったものであると解釈すると「俺は誰かと柏餅をつくりたいのだろうか、なぜこのような夢を」という疑問が生まれる。

ぼんやり考えていたのは、きっと6日くらいまでのこと。翌日「出来事になる願望が存在する」と思い当たる。

願望という言葉を解体すると願いと望みになる。そして、このふたつの言葉は思いという言葉でくくり直すことができる。おそらく、思考を含まない願望は存在しない。願望は思考を前提としている。

記憶の整理か、願望か。

どっちだろうという考えには様々な結論がある。実は同じものだった、ふたつとも誤りで選択肢の中に正解がなかった、同じであるという見解はただの勘違いでこじつけだった、等々。

時制を基準に考えると、願いや望みを記憶と呼ぶケースは少ないのではないか。

「私は今、柏餅が食べたいと思っている。忘れていない」

たぶん誤りではないけれど、この文章はどこかおかしい。

「昨日、私は柏餅が食べたかった。忘れていない」

こちらの方が自然な文章だ。現在の願望が過去になったとき、願望は記憶に含まれる。転じて、記憶に含まれる思考もまた存在する。

と、ここまで書いてふと考える。俺は元々、何が言いたかったんだっけ。忘れてしまった。忘れっぽくなった。いつか、夢のなかで結論と再会する日は訪れるのだろうか。たぶんない。