「ドーはドーナツのド」

母親がクラシック音楽と仏教に興味を持ったのはいつだろう? おそらく、俺が実家を出た頃だと思う。季節に一度くらいの頻度で近況を伝え合う中、なんだかいつもKitaraに行っているなあと思っていた。あのホールを「悪くない」と言っていたのは高校の教師だろうか。開館は97年の7月らしい。今、俺は時期から逆算している。とはいえ、高三の俺が音楽を履修していたとは思えない。もしかしたら違うかもしれない。大学かな。一年目で、俺は一般科目の音楽を履修している。いや、違うかもしれない。大学だ、こっちは合っている。けれど、音楽の講師ではない気がしてきた。自らタカ派を名乗る弁護士がいた。彼かもしれない。

母親が好きだったコンサートホール。いつか、きっと行ってみよう。

「きみが薦めてくれた音源はきっと後で聴く」

友達に伝えると「私が薦めたものを聴かないと意味がない」といった内容の応答があった。

俺はきみの言っていることを、ちゃんと理解しているだろうか。いちいち確認していないから分からない。分からないなりに挑戦の意思表示であると受け取った。基準もしくはハードルを自ら設定しているのだと。

「親がクラシック好きだったから、まずはそっちを聴いてみたい。ないものもあるだろうけど」

俺の記憶が確かならCDはここに。キャビネットのひとつを開けると100枚くらいのCDが納まっていた。もしかしたら、どこか他の所にも保管されているかもしれない。DVDが見当たらない。母親のことだ、きっとどこかに。すべてをエクセルで管理している可能性も高い。父親には聞かなかった。まずは見える範囲で良い、そう思った。

CDは6つのジャンルに分けられていた。『ピアノ』『チェロ他』『オーケストラ』『ヴァイオリン』『室内楽』『協奏曲』という手書きのメモが添えられている。たぶん、きちんと整頓されている。が、俺の知識が不足していて、少しだけ途方に暮れた。プログラムに書かれた「フルート・ソナタ」とここにある「フルートとピアノのためのソナタ」は同じ曲だろうか? 作曲者は一致している、演奏会でもフルートとピアノが一緒に演奏するらしい、きっと同じだろう、一つひとつがそんな感じだった。少々極端な言い方をすれば、俺はビートルズとジョンレノンとゲット・バックの区別が付いていないようなものだ。不安を抱えたまま、該当する曲が収録されていると思われるCDを抜いていった。ツィゴイネルワイゼンだけで3枚ある。大丈夫か。

半分くらい揃った。俺は、友達に進捗を報告した。

「凄い」

そうだろう、うちの母ちゃんはすごいんだよ。言わなかった。

「シフのCDがある」

「しふ?」

「アンドラーシュ・シフ。私が一番好きなピアニストです」

友達がそう言ったときの、俺のあの感覚をどのように表現したら良いのか、まだ言葉が見つかっていない。俺はシフという音楽家のことを全く知らない。20枚近くあるピアノのCDの中に彼の演奏が含まれていることが必然なのかどうか確信が持てない。おそらく必然なのだろう。だけれど、友達が当たり前のことを言うだろうか。分からない、俺は確認しなかった。見てもらいたかったのは集合であり、母親の字だった。友達はきっと写真を拡大した。そして、CDのタイトルにピントが合っているとは言い難い画像の中から彼の名前を見つけた。

「きみ、目が良いね。俺、まだ見つけられていない」

「ピアノのノのあたりです。シューベルトのやつ」

「シフさんも聴いてみる」

「彼のベートーヴェンも良いですよ」

母親と友達は同じ音楽を聴いていた。俺が知らない音楽を。

「ショパンのバラード集も見つけたんだけど作品ナンバーが書かれていない」

「バラード1番は、ド#ーーーーミラシド#ラから始まるやつです」

教えてくれたとき、この人意地悪だなあと思った。音階が分からんのだ、言われたところで。

「まちがえた。ドーーーーミ♭ラ♭シ♭ドラ♭」

「もうこの人やだ。キーの話か」

「調号ミスった」

ある金曜日、俺は友達に会いに行かなくてはならなかった。俺の都合で、どうしても会わなくてはならなかった。歩きながらショパンのバラードを聴いた。

ドから始まっていた。

いや、ちゃんとドーーーーって。

笑ってしまった。まじか。俺は誰のこともちゃんと分かっていない。友達のことも、母親のことも。

「バラード、本当にドーーーーから始まっていた。あなた、親切な人ね」

「でしょ!」