「どうせなら僕がもうひとりいたならそれはそれでハッピーだ」

紆余曲折を経て、演奏会のプログラムは俺が印刷することになった。突き詰めるとそれは俺の都合だった。友達はピアノを弾く。

「あんまり手先が器用じゃないけれど、なるべく綺麗に折るよ」

「それは当日手の空いた人たちでやりますので」

「折れていないプログラムなんて見たことがない。出来上がったプログラムを渡すまでが俺の役割だ。プログラムなめんな」

そうして、久しぶりに知ったかぶりを披露したという話を続けた。友達は「たしかに。プログラムのことなら私の方が知っています」と笑った。

前日は仲間の家で合宿だという。渡すチャンスは当日しかなかった。16:30開場、17:00開演の演奏会。

「入りは何時? 時間を合わせて持っていく」

「13:00です。リハ見ていきますか?」

「遠慮しておく」

「外は暑いんで涼んでいてください」

部外者がいるのはよろしくない。友達は、気にする人はいないと言った。誰がいたところで集中していることに変わりはないと。なるほど、そういう考え方もあるのか。

「じゃあ、お言葉に甘えて。俺のことはかまわないで良いからね。俺は俺で忙しいから」

嘘じゃなかった。事前にもらったパンフレットを見ながら仲間の顔と名前を一応は覚えたけれど、完全ではなかった。一文字ずつ違ったり漢字が重なっていたりと覚えるのに苦労した。俺は結局、パンフレットの映像をそのまま記憶した。楽器を持っていれば分かる。自信はなかった。事前に覚えた記憶と現実を同期させなくてはならない。忙しい。

100人入らないくらいのホール。「室内音楽だね」小学校か中学校で習った言葉を口にする。「そうですね」

ピアノ、トランペット、フルート、ヴァイオリン。客演はサックスとヴァイオリン。ヴァイオリンの音、意外と小さい。客席から見て左側で弾いていた方がよく聞こえる。右側だとピアノの方に音が向かっているように感じられた。だけれど、譜面を置くスタンドを考えると右側にいた方がいい。ピアノにかぶる。難しい。

ピアノの天板は曲目によってその角度を変えた。マイクもアンプスピーカーもなかった時代に生まれた楽器。よくできている。

演奏会が無事終わった。良い演奏だった。音楽の機微を感じ取ることが俺にはできない。ファのところでミが鳴っていても気づけないのだ。「あそこは結構運ゲーなんですよ」そういうものか。友達が話してくれる音楽の話はいつも面白い。

俺がちょこっとお手伝いしたことに対して彼女たちはきちんとお礼がしたいと言っていた。困った俺は考えて「じゃあ、××を」と言った。これで手打ちにしよう。「そんなんで良いんですか」と友達は笑った。たしか、演奏会が始まる1ヶ月以上前の話。

だけれど、当日の流れを考えれば、それはそれで結構難しいかもしれないと俺は思っていた。約束を破ってひとりホールを出たら彼女たちは気分を害するだろうか。悲しむだろうか。水を差したくもなかった。

そっと会場を出ようとする。何人かが気づき「深爪さんは残っていてください。帰るな」と捕まった。

「良いですか。絶対に帰らないでください」

「わかった」

その間、代わりに何枚かの写真を撮った。ほら、俺が撮るからあなたもあっちに。みんなが写っている方がきっと良いから。

やがて、名前を呼ばれる。当日裏方のお手伝いをしたふたりと俺。トランペットの方から謝礼を受け取った。

「ありがとう」

俺は笑って会場を後にした。

「打ち上げ行きますか?」

「行かない」

もう一度、笑った。きっと、上手に笑うことができた。

昼、ホールに向かうときは地下鉄を使った。帰りは歩いた。マクドナルドでハンバーガーとチーズバーガーをひとつずつ買う。店員は外国の客と英語で話していた。発音が綺麗だった。9時半くらいに朝ごはんを食べたきり、何も食べていなかった。20時くらいになっていた。長い一日だった。長くて楽しい一日だった。

数ヶ月間、自分なりに頑張ったのはこんなものが欲しかったからじゃない。突っ返すわけにもいかない。俺はただ。きっと俺は日記を書く。だからそのとき何もにじみ出ないように、帰るまでに気持ちを切り替えよう。音楽を聴いた。ボリュームをふたつ上げた。馴染みのある音楽を聴いた。「物欲しそうな顔をして」昔、とある人に言われた言葉を思い出す。大丈夫だ、今日は大丈夫だった。想定内だったから、だからきっと顔には出ていないはずだ。

「ちょっと! ××!! なんで言ってくれないんですか!!!」

友達からメッセージが届いた。俺は、本音と嘘が半々の返事を送った。

「気にしなくて良いのに! てか、なんで打ち上げに来ないんですかってみんな言ってます!」

「勘弁してくれ」

「明日はお仕事ですか? この後は大宮で飲むんですか?」

「休み。一杯だけ飲もうと思っている。きみは打ち上げに集中しなさい」

避けようとしたら、きっと友達はそのことに気づく。本当のことを答えた。

「後で私も行きます」

「いつもかまってくれるから。今日はかまわなくて大丈夫だと言ったじゃないか。俺は忙しい。日記を書かなくてはならない」

「待っていてください。行きます」

打ち上げの実況が定期的に送られてくる。これなら参加した方が良かったのだろうか。すべてを伝えはしなかったけれど、俺が断った理由は三つあった。会場にいた親御さんが心配しないように。仕事で行けなかった恋人が妬かないように。部外者であるという座標を明確にさせるために。率直な感情としては、拒絶ではなく尊重だった。それに、外にいるからこそ動けるという状況もある。まわりに他人がいるという環境は、それだけで価値を持つ。これは、俺自身の価値とはまた別の話である。

「××が流れちゃったから、今度一緒にお酒を飲みましょうと言ってます! みんなが!」

なぜ順接でつながるのか。斜め上のお誘いに笑った。たぶんバレていない。だけれど、それでも彼女たちの方が一枚上手だった。