「僕たちに示された仮想の自由」

7月11日の木曜日、15時半。

演奏会用プログラムを作成する打ち合わせの二回目。今回で、たぶん終わり。別件である音楽の打ち合わせはベローチェか焼き鳥屋さんで行われることが多かった。

「うちくる? きみの部屋とちがって煙草が吸える」

「ベローチェも、地味に遠いですもんね」

前日の夜、北海道出張を終えた俺は部屋の模様替えを試した。ベッドの方向を90度回転させてみたのだ。比率が5:1くらいの長方形だったスペースが正方形に近づいた。誰かが来るならこちらの方が話しやすいのではないか。ワンルームがベッドによって分断された形となり、掃除と洗濯がやりにくくなったけれど、後のことは後で考えよう。

午前中にキッチンの換気扇が新しくなり、部屋の環境整備はほぼ完了した。掛布団のカバーと座布団がない。当時の俺は、掛布団と敷布団のカバーが違うということさえ知らなかったらしい。かつては、座布団らしきものがひとつあった。しかし、絵に描いたような煎餅座布団になっていたため春の大掃除祭りで捨ててしまった。客をフローリングに直接座らせるのもいかがなものか。用意しよう。

部屋の外に範囲を広げるなら共用スペースを磨くデッキブラシが欲しい。このアパート、ほとんど管理されていない状態で、共用部の照明が点かなくなって数年が経過した。まったく気にならない。「本当に人が住んでいるんだ」的を射た感想を述べたのは、たしか友達の恋人だった。

歩くところくらいは自分で綺麗にしようと思った。今、これだけ汚いのはエアコンの交換を行ったせいでもある。ベランダが汚かった。汚染は広がった。

この部屋に住んで10年くらい経つけれど、これまでに訪れてくれた人はおそらく5人。招かれざる客をひとり含む。今回の友達は6人目となる。

緊張する。この緊張は何だろう、近しいものを考えてみた。裸か。裸かもしれない。裸を見られるのと同じ類の緊張だ。いや、裸を見られる方がましな気もする。友達には、言わなかった。

やはり、床に座らせるのはいかがなものか。考えた俺は「そこに座って。床は硬い」と言い、ベッドを指でさした。彼女がどのように感じたのかは分からない。会ってしまえば、もうそれほど緊張していなかった。俺は床に座った。馴れている。

友達は藤色のワンピースを着ていた。もしかしたら、もっと専門的な名称があるのかもしれない。とても似合っていた。伝えなかった。「かわいいと思ったときはかわいいって言う」いつだったかそう宣言したけれど、そうじゃないときもある。嘘をついているだろうか。

「コーヒーと牛乳とクリアアサヒがある。クリアアサヒにする?」

我々はそれぞれの缶を開けた。

話しながら作業を進める。友達は途中から暇そうにしていた。音楽を聴いたりギターを弾いたり歌ったり。彼女が弾き語る歌のキーが半音上だったことに気づいたのは別れた後だった。さユりのミカヅキ。背もたれが欲しいとつぶやき、横になった。仕事が忙しいという話も聞いている。疲れているのだろう。眠っても構わないと思っていた。時間になったら起こせばいい。越川くんの家で、俺はいつも寝ていた、そんなことを思い出した。後になって考えてみると、歌っている友達を、横になっている友達を、見たかったのだと思う。だけれど、やるべきことがあったから。

「私よりも真剣ですね」

「真剣だよ」

「お礼は何がいいですか?」

「この間、多めに払ってくれた」

「あれもなんだかよく分からない形になったし。何がいいですか?」

手を止めて友達をみた。ワンピース、本当によく似合っている。いつだったか、俺に質問したときと同じ表情だった。答えなかった。演奏会を成功させてくれたらいいと言ったなら、俺の根源に生息するらしい気障りな感性が具現化されたことになるだろうか。冗談じゃない。実はひとつ思いついたことがあった。自分なりに一生懸命考えた結果、没にした。十分だ、答えはもう出ている。お礼は、もう頂戴している。結論は変わらない。

プログラムが、ほぼ出来上がった。

先月の28日、ちょっとしたやりとりがあった。

「11日なんですけれど、予定どおり昼で大丈夫ですか?」

「是非」

「ありがとうございます。嫁ぐ親友に、夜会おうと言われて」

「30分くらいで終わるんじゃないかな。間に合うと思うよ」

「ありがとうございます!」

最初は意図が分からなかった。後になって思い当たる。もしかして、気を使わせてしまったのだろうか。プログラムの作成が終わったらお酒でも飲もうと俺が考えていることを想定した上での確認だったなら、俺は素っ頓狂な応答をしていることになる。打ち合わせのことしか考えていなかった。だけれどと考え直す。まったく違う人と、異なる状況で、似たようなことがあった。あの夜、俺はとても悲しい気持ちになった。もし仮に友達が確認しなかったなら、俺は同じような気持ちになっただろうか。たぶんならないと思うのだけれど、確信はない。借りがひとつ増えたのかもしれない。

次の予定まで、まだ少し時間があった。

実家でつくったプレイリストに入っている楽曲が演奏会の演目と一致しているのか確認してもらった。すべて、合っていた。彼女が演目として選んだ『死の舞踏』を聴いてもらった。音源は大量にあった。俺は4つか5つを適当に選んでリストに入れた。オーケストラ、トランペット、ヴァイオリン、等々。どれかを聴いた友達は冒頭の数秒で「だせえな」と両断して次に行く。相変わらずはっきりしているというか、厳しいというか。普段とのギャップが強烈である。この人に、俺のギターを聴いてもらうのか。大丈夫か。とある音源を聴いた彼女は「最初から間違っている」と言ってまた次へ。これは、なんとなく分かった。どちらかと言えばガチ勢ではない雰囲気を、俺もジャケットから感じていたから。

「この中だと、オーケストラ以外聴かなくていいです」

怖い。だけれど、俺はいろいろ聴くと思う。彼女が良いと思う演奏、良くないと思う演奏。そうじゃないと、きっと分からないから。人よりも時間が掛かるということを自覚している。最短距離で何かを成し遂げたことが、俺にはない。

仕事柄ということもあって、友達の部屋は衣類で溢れかえっている。定期的に服を売っているという話を聞いた。季節に合わせて売るのがコツらしい。春には春のものを、秋には秋のものを。お金に困った人が反物を売る話を昔どこかで聞いたけれど「飲み代ができました」という言葉を聞いた俺は、同じように考えてはならないと改めた。

今、着ている服は夏物なのだろう。季節外れの服を着る人ではないし、とても涼やかなワンピースだったから。

来年の春に伝えたいことがある。藤色のワンピース、できることなら売らないでほしい。とてもよく似合っているから。そして、もしも俺が伝え忘れたなら、それは言わなくて良いことだったのだろう。