「その手は大事な人とつなぐためにある」

山口雅也の『生ける屍の死』を読み終えた。

初めて推理小説を読んだのは、きっと中学生の頃だった。

俺が日記を書き始めたのは20代の半ばである。残念なことに、日記以前の記録は残っていない。だから、俺の話には「おそらく当時はこうだった」という類の想像が大量に混ざっている。

推理小説を読んでみよう。そう思ったのは漫画でミステリが流行っていたことも関係していたと思う。だけれど、俺はいわゆる古典から入らなかった。学校の図書館で借りたのは綾辻行人の『十角館の殺人』だった。たぶん文庫。表紙を見ただけでわくわくしていたような気がする。

新本格というジャンルを知った。そこから、俺の講談社ツアーが始まった。我孫子武丸、法月綸太郎、有栖川有栖。一通り読んだ。我孫子武丸はゲームの『かまちたちの夜』も手掛けていたと記憶している。ゲームでこんなことができるのか! 面白かったし、俺も作ってみたいなあと憧れた。たぶん。綾辻以降の順番は記憶が曖昧なのだけれど、新本格に限らず、島田荘司、東野圭吾、京極夏彦、清涼院流水もこの時期に読んでいる。森博嗣は高校かな。清涼院流水はひどかった。漫画では当たり前の手法として使用されるコピーアンドペースト。彼は小説でコピペをやっていた。衝撃である。もし彼の作品が適切な誰かの手によってリメイクされたなら、それは素晴らしい作品に仕上がることだろう。

このように、俺が読んできたほとんどの小説は講談社文庫もしくは講談社ノベルスだった。別段、信者だったわけでもないのだけれど。どうしてだろうね。売り方が上手だったのかな。

当時は今と違いウィキがなかったし、俺に面白い本を教えてくれる人もいなかった。もしくは、俺が訊かなかった。そんな俺を導いてくれたのはもっぱら文庫本の解説だった。解説している人が書いてる小説に興味を持ったり、解説の中に出てくる小説を探したり。

『生ける屍の死』を知ったのもそのようなルートのどこか一点だったのだろう。

俺は緊張した。たぶんだけれど。なぜなら、この小説は講談社ではなく創元社だったからである。創元推理文庫。ついに俺も講談社を離れる日が訪れたのか。そう思ったかどうかは定かじゃない、おそらく思っていない。緊張したのは嘘じゃない。

当時の帯に書かれた文を引用する。

『このミステリーが凄い! '98』過去10年のベスト20【国内編】1位

死者が次々と甦る!?

手元にある文庫本は2000年に刷られているので俺がこの小説を読んだのは最も早くて19年前。記憶が確かなら平積みされていた。

再読した理由は、友達に薦める小説として相応しいか否かの判断ができなかったから。課題図書を交換する約束については前に書いた。5分の1ほど読み終わったところで薦めた。たぶん、合っている。読んでいる途中で思い出したのだけれど、俺はこの小説を越川くんにも薦めている。そして、彼と彼女とでは、薦めた理由が異なる。越川くんに読んで欲しいと思ったのは、彼がロックだったから。もしくは、俺の知っているロックと一致していたから。彼女に薦めたのは、彼女はきっと死生学にも興味があるから。

「おすすめの推理小説を教えて」と言われたのだけれど、斬新なトリックとか、どんでん返しとか、そっち方面では考えなかった。推理小説には多かれ少なかれ縛りがある。そしてその一つに「人物を描きすぎるのはよろしくない」というものがあると俺は思っている。友達は、もしかしたら純粋なパズルとしての推理小説を求めていたかもしれない。不十分だ、どうしよう、悩んだ。

俺が薦めた夜、彼女は書店で買ったという。

「このミスの、この30年の1位に選ばれたんだね。楽しみだ」

友達の言葉に驚いた。記録が更新されている。過去30年の1位は、なんというか、凄くないか。おすすめの音楽を訊かれて考えに考えた結果ビートルズを薦めてしまったときのような恥ずかしさもあったけれど、彼女は推理小説を読んだことがほぼないと言っていたし、俺が言わなかったら買わなかったかもしれない。良しとしよう。

「これ、元々は英語で書かれたものなのかな?」

「和訳された本に似ている文体だと俺も感じた」

「うっかり下巻の裏にある粗筋を目にしてしまってさ……。一行目に大事なことを書くのはやめて欲しい」

「上下巻に分かれたんだね。俺が持っている本の紹介にも壮大なネタバレがあるよ」

「なんてこった」

俺は先の話に触れないよう慎重に話していたのだけれど、我々の「うわあ」が同じものであったことを後に知る。笑った。

そういうわけで2月8日の15時前、俺の再読が終わった。

ラストシーンは記憶通りだった。だけれどその情景は遠くから見ているものであり、彼らがどのような話をしているのか、どのような状況におかれていたのか、いずれも記憶とは違った。そうか、この物語はこのようにして終わったのか。

読んでいていたたまれないシーンもあった。推理小説という仕様上、その場面はサラッと描かれている。

死んでしまったら話すことができない。そんなことは分かっている。

彼らが暮らす町は違う。死者は甦る。話すことができる。それではBLANKEY JET CITYが歌うような状況なのか。

生きているときと死んでいるときが実はそんなに変わらないものだとしたら?

俺の答えはノーだ。生きているときと死んでいるときは違う。作中で展開される死生学にならえばイエスかもしれない。でも違う。異なっている点はどこにあるのか。

これは比喩だけれど、死んでしまった彼は大切な人の手を握ることができなかった。

説教くさいことは言いたくないし、大きなお世話だという気もするのだけれど、恥ずかしがらず、生きている間にたまに手をつなぐくらいのことをしてもいいんじゃないかなと思った。

「ああ、そういえば。私、○○さんと手をつないだことありますよ」

「まじか! 意外だなあ」

「つなぎたいですか?」

「いや、いい。高くつくから」

俺の意思を確認したときの友達の笑顔はとても素敵で、俺はそれで十分だと思ったのだけれど失敗したかなあ。一応、まだ生きている。俺は、生きているぞ!!