頭骨の話。読むことについて。ひとりの人の話。神様について。

読書感想とそれ以外とを区別して書こうと試みたのですが、うまくいきませんでした。これから先、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を初めて読むかもしれない方は、お読みにならないほうがよいと思います。内容にも触れます。


7月19日は俺にとってとても大切な日だった。今年のその日の前の日に、俺は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終えた。読み終えた日が7月18日であったということ、読み終えた小説が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』であったということ。狙ったわけではないのだが、一日はなれた形で頭骨の符合が生まれた。

大切な日に、ひとりの人とお会いした。正確には、ひとりの人とお会いしたから、その日は俺の大切な日になった。

ひとりの人が口にした冗談を、俺はいまでも覚えている。「待ち合わせるときにバラの花をくわえましょうか。目印として」その街に、その駅に、一輪のバラをくわえている人はきっと他にはいないから、目印としては十分に有効な手段だった。そして、バラを口にくわえるその姿はおそらく魅力的であるに違いなかった。もっとも実際のところ魅力的かどうかはわからない。みたことがないから。けれど想像する限りでは、俺はその人のことを素敵だと感じただろう。あるいは。あるいはその発想に対して俺は魅力を感じたのかもしれない。なぜなら、俺は待ち合わせの目印にバラの花をくわえようと思ったことが一度もないからだ。

以前、友達と一緒に行ったカフェに、ふたりで入った。知っている店はそこしかなかった。

俺は酒を飲んだ。ひとりの人はアイスコーヒーを選んだ。話をするあいだ、俺はビールを数杯、その人はたくさんのアイスコーヒーを。その日のことを思い返すと、俺は恥ずかしくなり、消えてしまいたい気持ちになる。やり直せるなら、俺はきっと同じ話をしない。それは、たとえば言葉についてとか、物を書くことについてとか、俺が扱うにはいろいろと、力量や技量や知識や経験やおそらくは実力と呼ばれる類の資格が不足している話題が多分に含まれていたためである。半ば強引に置き換えるなら、俺は外科医と術式についての議論を交わせるか? できるはずもない。メスを執る前の手の洗い方さえ知らないのだから。いや、違う。俺は、きっと同じ話し方をしないと思う。俺は話したいことをその人に話したのだから、やり直すことができたとしてもきっと同じ話をするだろう。けれど、話し方がまったく異なるものになるのだろう。

お会いした日、店はキャンペーンを実施していて、それはZIMAを注文すると、どくろの指輪がもらえるというものだった。材質はふにゃふにゃした何かで、スイッチを押すか、もしくはどうにかすると、記憶がたしかなら青く明滅した。LEDだろうか。頭の大きさは500円玉くらい。その人が身につけるには、少々大きいように思われた。

読み終えた小説にも頭骨が出てくる。ヒトの骨ではないけれど。そして光る。イメージは大きく異なるが共通項もある。そんなふうに感じた。

世界の終りで『僕』は夢を読む。頭骨に両手を添えて、眠っている夢を目覚めさせるように。夢はきっと乱数のように不規則で、風のように境界が不明瞭で、捕捉するのが難しい。仮にと考える。頭骨を本に置換できるか。夢を文章に置換できるのか。もっとも、頭骨はまとまりのある一冊の本ではないけれど。読むという行為について考えさせられた。奇跡が起こらない限り、夢を解読することはできない。可能なのはそこに夢があるという事実を認識すること。あるいは全体としての雰囲気を捉えるに留まる。奇跡が起こらない限り、奇跡は起こるのだが、完全な特定や理解には至らない。

きっと、俺は本を読んでいるときに何かを伝えたかったのだと思う。望んでいたのはアウトプットで、実行したのはインプットだった。しかし、と考える。本を読むという行為はインプットに限定されるのだろうか。アウトプットは言葉に置き換える行為や文章を書く行為に限らないかもしれない。思うこと。考えること。感じること。これらも、アウトプットではないか。脳からのもしくは心からの。たとえ外部に出力されていなくても、たとえば俺から俺に対して行われるアウトプットがあるのではないか。本を読みながら思ったり考えたりすることがある。それらが多くなればなるほどに読む時間は遅くなる。ならば、本を読むことで望んだアウトプットを実行していた可能性はないだろうか。読むという行為は、もしかしたらアウトプットを含んでいるのではないか。もっとも最終的な着地点ではないのかもしれない。対象を考慮していないからだ。つまり、俺の望みがアウトプットそのものにあるか特定少数へのアウトプットにあるのか次第で望みが叶ったか否かの結論は分かれる。

これは俺の推測なのだけれど、この本は、ひとりの人にとって頭骨のひとつだったのではないかと考えている。その人がこの本を俺に薦めてくれなければ、俺はこの本を読まなかっただろう。きっと、読まなかった。どうして薦めてくれたのか。必ず理由がある。その意味で、もしかしたら俺は一般的な読み方をしなかったかもしれない。何気なく書店に寄り何の気なしに一冊の本を選ぶといった関わり方を、少なくともしていない。きっと、本との関わり方には様々な形があるけれど、俺は何らかの理解を求めるという極めて私的な動機で読んでいたように思う。公的な読書があるのかどうかは分からない。ないような気もする。いずれにしても、俺がこの本を読むという行為は、頭骨に手を添える行為に類似していたのかもしれない。

そうして、俺は神について考える。全知全能の神ではなく創造主としての神について。厳密には、世界の終りは『僕』そのものであるのだが視点を変えると世界の終りをつくったのは、もしくは、世界の終りの原作者は『僕』であるという見方もできる。そう考えると『僕』は創造主としての神である。しかし『僕』は全知全能ではない。ただの創造主にすぎない。だから世界の終りのルールに従う必要があるし、すべてを選ぶことができない。『僕』はどちらかを選ばなくてはならない岐路に立たされる。もしも『僕』が全知全能だったなら、彼には両方を選ぶという選択肢もあった。都合よく再構築すれば叶う。だけれど違う。その点で、世界の終りは非常にシビアだった。俺は何年か前に両方を選ぶという内容の日記を書いたが、世界の終りでは通用しない。どちらかを選ばなくてはならない。水夫ロックのように夕闇に留まることも許されない。もっとも、この世界はおそらく世界の終りではない。その意味で、この世界には世界の終りにはない選択に関する猶予や余白、もしくは可能性がある。世界の終りが示唆する可能性についても考える。それは、俺もあなたも神である可能性ではないか。『僕』は自身が創造主であることを最初から自覚していたわけではない。また、自覚した後に何かが変わるわけでもない。

ひとりの人が神について慎重に話していたことを覚えている。

話を聞き、時を経て本を読み、それから俺が考えたのはたまたま神様になった、あるいはなってしまった、もしくは、ならざるを得なかった存在についてだった。その人の話と一致しているか自信がないけれど。本を読み終えたとき、俺はその人に会いたくなった。読んでいる途中からそうなることはわかっていた。会って話をしたいと思った。けれど、もし仮に会うことができたとしても、おそらく上手に話せないだろうということもわかっていた。だけれども。本のなかで会いましょうという言葉について考える。誰がいったのだろう。俺か? たぶん俺じゃない。果たして本のなかで会えるのだろうか。俺の計算によると可能である。世界の成り立ちが認識に基づくなら、決して不可能ではない。小説を読んでいるあいだ、俺はその人とたくさんのことについて話しているような気がしていた。錯覚かもしれない。それは会話ではなく、たくさんのことについて話を聞いていたということかもしれない。

ハードボイルドという言葉については、真の理解に至っていないかもしれない。固ゆで卵の暗示。卵には殻があり、比喩としての卵の殻は、物語のなかで重要な意味を持つ。内容を思い出すなかで、真っ先に共感できたのは日比谷公園だった。『私』は公園でビールを飲むのだけれど、記述があるよりも先に頭のなかで日比谷公園を描いていた。友達とドイツのビールを飲んだ日のことを思い出す。『私』は金物屋さんで衝動買いした爪切りを図書館に勤める人に贈る。俺は、今年の誕生日プレゼントに爪切りをいただいた。もしかしてと思う。もしかして。ありがとう。いただいて分かりました。俺は爪切りが好きです。

この本を読む必要が俺にはあったのだと思う。読み始めたころ、なかなか先に進めなかった。「どこまで読んだ?」「エレベータの中にいる」「冒頭だね……」

純化は危険だけれど、この小説の主題は本と神にあると俺は考えている。理解が困難であるということ、思いが十分でなければ読み取ることはできないということ、思いが満たされていてもうまくいくとは限らないということ、それと神が人を赦すのではなく人が神を赦すことについて。知らない人たちの感想をいくつか読むと、十分な書き込みあるいは過剰な描写といった評もある。そうではないと俺は思う。仮にすべてが書かれているのなら読み手は補わなくてよいはずだ。説明が上手な人の話を補足する必要がないように。おそらく作者はすべてを書いていない。だから読み手は持ち帰ったほうがよい。

この小説には、世界に限らず、心についての捉え方も提示されている。俺はこのように人の心を捉えたことがなかった。糸口になるかもしれない。

カフェにはひとりで行くこともあるし友達と行くこともある。その度に俺の記憶は甦り、恥ずかしい気持ちになり、消えてしまいたくなり、だけれどひとりの人と話したいことについて考える。話したいことが何か、どのように伝えればよいのか。言葉がみつからないことも多い。それまでは、俺は言葉に限界があるのだと思っていた。だけれどそれは違うといまは思っている。限界があるのは俺のほうだ。実力あるいは努力が不足しているだけなのだ。本質の話かもしれないけれど、やはり言葉には相手に何かを伝えることができるという可能性がある。だから、言葉を探している。アウトプットを続けるしかない。あらゆるアウトプットを尽くせば、奇跡が起こるかもしれない。一筋の夢を捉えることができるかもしれない。