元気です。

いろんなことがありまして、俺の速度が十分ではなく、何も書けないまま3ヶ月が経ちました。
書くべきことについて、書かねばならないことについて、自分以外のひとの言葉を書くことについて、考えていました。

きっと、近いうちに書こうと思います。

いま、まさにいま書かねばならないと思ったことは「あんなに大事にしているのに?」という言葉についてです。
『失踪』について話をしていたときのことです。いくつかの想定と実際にあった会話。それらを踏まえて、もし仮に自分が失踪するならばという話になりました。

「俺なら、おそらくギターは置いていく」
「あんなに大事にしているのに?」
「うん」

とても大事にしているから。俺が考える失踪というものは強制終了でした。恵まれた縁や、暮らしや、身の回りの大切なものを捨てるということ。捨てざるを得ないということ。失うということ。諦めるということ。

たとえば、人であるならば。

俺には、このひとだけは本当に失いたくないというひとがいます。そのひとを失わない形での失踪はありえないと思いました。したがって、ギターを持っていくわけにもいかないのです。失踪という札を切るのなら、そこに俺の選択があってはならないと考えました。代価の話です。俺が想像する失踪は、とても痛くて辛いものでした。

自らが失踪することを考えると、暗い気持ちになります。しかし、現在も暗い気持ちであるかといえば、それは違います。それは、異なる見解を提示されたからです。極めて奇妙な表現になるかもしれませんが、その失踪は、心あたたまる失踪でした。嬉しかった。俺とは違う考えだけれど嬉しかった。けれど、それはまた別の機会に。きっと書きます。

日記は、さかのぼるかもしれないし、さかのぼらないかもしれません。つまり、書いた日を日付として、本文のなかにいつの話なのかを書き残す形式を考えているということです。