「36.5度のからだで、しっかりしなけりゃならないんだな」

俺の手元には、一枚のチケットがあった。「なんでもいうことをきいてもらえる券」である。本当に存在したのか、空想上のツールだと思っていた。しかしこれ、人格や品性が問われる道具というか、使うのが難しいぞ。どうしよう。

考えた俺は「一緒にライブに行ってもらえないだろうか?」ときいた。俺は本当にあるふぁきゅんのことが好きだから、だから、友達にも聴いてほしいと思ったのだ。だけれど、微妙だとも思っていた。ライブは日曜日にある。友達は、日曜に休みを取るのが難しい仕事をしていた。
「日曜日は、無理です」
「だよなあ」
「他の時に使ってもらってもいいですか?」
応えなかった。笑ってごまかした。道具を使うという解釈は二通りある。効果がなかった時、手元に残るか否かだ。HPが最大の時に薬草を使用したらどうなるだろう? 俺の解釈は後者だった。薬草は、失われる。俺の手元にあったチケットは失われた。そして、ふぁっきゅんライブのチケットが一枚残ってしまった。少し、しょんぼりした。
闇に葬ろう。ギリギリまで俺はそう考えていた。他に誘う人がいなかったわけじゃない。音楽が好きな人も、付き合いの良い人も、何人か知っている。知らない人に譲る選択肢もあった。SNSで「誰か行きませんか?」と募ればいい。だけれど。だけれども。
俺が知っている人を誘うということは、友達の代わりに来てもらうということだ。それは失礼にあたるんじゃないかと考えた。振られたから代わりに来てよ。そんなことを頼んで良いのか。俺が知らない人を誘うのも、やはり微妙だった。チケットは連番である。怖いだろう、普通に考えたら。変な人はいっぱいいる。だから、このチケットはなかったことにしよう。ずっと冷蔵庫の中に仕舞ったまま、二度と同じ間違いを繰り返さないための記念碑にしよう。そう考えていた。
いや、しかし。
ライブの10日前、俺は越川くんに相談した。困っていることは伝えず、ただ、誘った。彼の好きな音楽ではないような気もする、奥さんやお子さんのことも考えた、立って音楽を聴くことが苦手なことも知っている。全部とは言わないけれど、多くのことを俺は想像していた。その上で誘った。越川くん、助けて、俺、また間違った、そう思いながら。返信があった。
「行ってみようかな」
ありがとう。

11月24日、新宿ReNYでふぁっきゅんは歌った。

チケット代を払おうとした越川くんに俺は言う。「これは、供養なんだ」と。きみからお金をもらうわけにはいかない。納得してくれなかった越川くんは、その後のお酒代を多めに払ってくれた。起点は俺のSOSだった。だけれど、きみとゆっくりお酒が飲みたいと思っていたのも本当だ。ねえ、ブリを食べよう。「子供ができてから、こうやって誰かと外でお酒を飲むのは初めてかな」と彼は言った。言葉が沢山浮かんだけれど、俺は努めて事実を口にする。お子さんが太鼓を叩いている動画を見せてくれた。楽しみだね。音楽の話をした。ライブの話もした。彼の、慎重な批評は俺にとっての宝物だ。具体的な値ではなく、形容としての10キロヘルツ。コンテクストという言葉。文脈という意味を持っていることを俺が知るのは話し終わった後だった。だけれど、それこそ文脈で伝わっていた。そうだね、そういうものかもしれない。

彼と別れた後、俺はふぁっきゅんのライブについて考えていた。異様だった。いつものふぁっきゅんじゃなかった。まるで、いや、いつもきっと全力なのだろうけれど、理解できなかった、どうしてみんな、いつもと同じように音楽を聴いているんだ。聴くことができるんだ。盛り上がることができるのだ。歌う彼女が、俺は怖かった。さっき気づいた。俺、怖かったんだ。

なんだかずっと、お別れの言葉を聞かされているみたいだった。

来週、彼女は大阪で歌う。チケットは、最初から一枚しか買っていない。今度は問題ない。俺は大阪で答え合わせをしようと思う。