「僕には無縁だと思っていた」

大好きな人がいる、尊敬している人もいる。それはもう、両手では足りないくらい。「敵わない」とも思う。勝ち負けの定義が曖昧だけれど、これは一種の敗北感だろうか?

しかし、あの人のようになりたいという意味で憧れることはほとんどない。俺自身がなりたいわけじゃない。これは何かを押し付けているのだろうか? 「搾取」という言葉を何年か前に聞いた。同じだろうか。

考えてみる。

小学校の高学年くらいから徐々に、特に右目の視力が落ちていった俺は、当時の担任教師が使っている眼鏡と似たものを買ってもらった。たぶん似合っていなかった。ベッコウ模様の、大きな眼鏡。あの人のようになりたい、俺がそう思ったのはその時が最後かもしれない。

厳密には、高校に進学したとき江神二郎に憧れて煙草の銘柄を決めているのだが、あれは、ちょっと、事情が異なるというか、ノーカウントにしたい。

羨ましいと思うことや妬むこと、歳を重ねるたびに減少している。最初は、羨望や嫉妬が俺にはまったくないと書きかけたのだけれど、誤りだと思う。自覚していないだけで、もしくは自覚しないようにしているだけで、俺の中にもそのようなものが確かにあるのだろう。

以前、同じことを書いたかもしれない。

その日の俺はいつもより早くに起きた。家を出たのは15時か16時。会社に向かう途中、買い物帰りの友達とすれ違った。友達は恋人と一緒だった。二人の両手にはビニール袋、スーパーで買い物を終えた帰り道なのだろう。二言三言、言葉を交わした。

彼らのようになりたいと思ったわけじゃない。でも、ほんのちょっと、少しだけ、悲しい気持ちになった。ないものねだりだ。俺は、俺が決めた幸せを無視している。だってそうだろう、好きな時間に起きて好きな時間に寝て、酒を飲んで、煙草を吸って、ゲームで遊んで、アニメを観る。ギターを弾こうとして、やっぱり駄目だと投げ出して、だけれど音楽が好きだから、音楽に憧れているから、もう一度やってみて。やっぱり駄目で。俺の暮らしを選んだのは誰でもない俺自身じゃないか。彼らは求めなかった、俺は求めた、それだけの話じゃないか。

「だって、最近、全然会って――」

いつだったか、偶然居酒屋で会ったとき、友達は最後まで言わなかった。俺は、いつものように笑ってごまかそうとしたのだけど、友達はきっと何かに気づいたのだろう。俺が友達を避けようとしていたこととその理由。答え合わせをするつもりはない。友達の勘は鋭い、おそろしいほど、いろいろなことに気づく。敵わない。だから、合っていると思う。

考えていた。

それからしばらく経って、俺は友達に「君の顔がみたい」と言った。会った後に「顔がみたかった」と動機を伝えることや文章の中で地の文として使うことはある。しかし、過去形ではないかたちで誰かに言ったのはおそらく初めてのことだった。

避けていることを伝えるつもりがないのだから、避けるのをやめたこともまた、伝えなかった。言わなくても分かってもらえるという考えはなかった。分かってもらえなくて構わないという諦めもなかった。もう一度同じ失敗を繰り返すかもしれない。そのとき、俺はひどく後悔すると思う。だけれどもしそうなっても「やっぱりか」と思わないようにしよう、言わないようにもしよう、それはただの甘えだから。俺が自分なりの覚悟を決めたのは6月9日のことだった。

一週間経過した。

友人の芝居を観た後、俺は近所の焼き鳥屋さんに行った。23時半くらいだったと思う。日が変わる前に帰ろうと思っていた。「2杯飲んだら帰るよ」と店長に伝えた。詳細は割愛するけれど、結果的に日付が変わってしまった。友達が来たばかりで、じゃあ帰るねとも言い出せず、困ってはいないけれどどうしたものかなあと思っていた。

午前2時になった。閉店時間だ。店には3人残っていた。店長と、彼と俺。二人は、俺の誕生日を祝ってくれた。

友達を呼んだのは店長だった。「来たら教えて」と依頼されていたらしい。店長は友達との約束を果たした。そうして「絶対に帰すな、なんとか引き延ばせ」という新たな依頼を受け合った。警察の逆探知みたいだね。感想を伝えた。

もしも誕生日までに俺が来なかったら、アパートの、俺の部屋の前にプレゼントを置くつもりだったらしい。

俺としては、1日ずらしたつもりだった。日が変わった瞬間にお祝いしてもらえるとは思っていなかった。ひとりで誕生日を過ごすつもりだった。それが、俺の決めたことだから。日の変わった午前0時11分に札幌の友人がメッセージをくれた。もう十分じゃないか。少し前に、俺はひとりで死ぬことの難しさについて考えている。今はまだ無理だ。ひとりで死ぬことはできない。俺のことを覚えている人がいる。

彼らと別れた帰り道、君の知らない物語を口ずさむ。今日もへたくそだなあ。それでも俺は音楽に憧れている。音楽をやる人にじゃなくて、音楽に憧れている。そういうわけで40歳になりました。江神さんより一回り以上年上になってしまった。こんな感じで、なんだか申し訳ない。