「そうだ、本当はそういうことが歌いたい」

7月1日、日曜日、晴れ。仕事じたいは午前3時すぎに終わったのだが、なんだか考え事をしてしまい、朝になった。寝なきゃ。昼に行きたいところがある。夜には、話したい人がいる。寝なきゃ。1時間くらい眠ることができた。

+α/あるふぁきゅん。が、再びお台場で歌う。いくつかのリリースイベントに参加したけれど、お台場は屋外ということもあり、なかなか過酷な環境だった。暑い。だけれど、俺はお日様の下で歌うふぁっきゅんが好きだった。格好良くて、綺麗だから。

三日連続で行われているイベントの最終日。ミニライブは一日二回あるのだけれど、二部で一曲歌い終わった後、彼女は我々に話をした。二日前に風邪を引いてしまったこと、体調管理も仕事に含まれていること、本来客である我々に話すべき内容じゃないと思っていたこと。喉に負担が少ないセットリストに変えるべきか悩んだこと、変えなかったこと、嫌だ嫌だ行きたくないと言っていたこと。

原文ままではないのだけれど、

「みんなが私のことをみているということを、こんなに強く感じたことはありません。いつも騒いでいるくせに、ライブを楽しんでいるのに、今日は私のことを心配そうにみている。調子が悪いのかなとか、大丈夫かなとか、きっとそんなふうに思ってくれて、ちゃんと見守ってくれている」

彼女の言葉。

一部をみているとき、俺はふぁっきゅんの不調に気付かなかった。二部の、一曲目の途中でようやく「あれ?」と感じた。なんだか辛そうで、わずかに何かが乱れていて。
失礼な話ではあるのだけど、およそ一年前、歌う彼女を初めてみた俺は、歌も録音なのかなと思ったのだ。うますぎた。

話を終えた彼女は「命に嫌われている」を歌った。

この歌は、Cメロを高く歌う人と低く歌う人がいて、ふぁっきゅんは前者だった。音源はもちろんのこと、ライブでも何度か聴いている。この日の彼女は、低く歌った。俺が知る限りでは初めてのことである。高いか低いかに良し悪しはない。まったくない。音楽の素敵なところは違うところにある。彼女がどんな思いでいつもと違う歌い方をしたのか、知ることはできないし、想像もできない。

「鳥肌が立った」とか「心がふるえた」とか「涙があふれた」とか言いたいのだけれど、どれも事実ではない。

新潟のライブをみた俺はこのように感想を書いているけれど、お台場で歌う彼女をみた俺は「この人、やっぱり凄いや」と泣きそうになった。全力を尽くすという言葉は、言い訳をするために使われるべき言葉じゃない。そうではなくて、誰かが誰かに対して思うことなのかもしれない。本当は一言感想を伝えたかったけれど控えた。帰りの電車でメールを途中まで書いてしまったけれど、それも途中で消した。

「生きろ」

彼女は最後まで歌った。