「お料理研からおたまは既に失われた」

間の休み一日を含む、九日間の北陸出張。社宅のキッチンが使いやすく、自分の部屋にいるときよりも自炊の頻度が高い。一週間はもつだろうと予測して購入した日本酒(加賀鳶の山廃純米、720CC)は三日でなくなった。家で飲むお酒はビールかウィスキーが多いのだが、加賀鳶もおいしかった。次は、同じ銘柄の極寒純米、1800CCを選んだ。一升瓶を持って50メートル道路を横断する俺を、後輩はニヤニヤしながら撮影していた。「左手じゃなくて右手で持つべきだった。そうすれば、左にいる君は写真撮影をしようとは思わなかっただろう」「その時はまわりこむだけです」なるほど。

俺は、ほぼ毎日チャーハンか焼きそばか、もしくはその両方をつくっていたのだけれど、鍋料理に挑戦した日もある。エノキ、白菜、豚のもも肉、豆腐。本当はバラが良かったのだが、売っていなかった。

結論から言うと、土鍋とおたまを駄目にした。鍋は焦げ、おたまの何割かは溶けていた。出張がはじまって二日目か三日目の出来事である。

最後の日、俺は近所のニトリで鍋を買った。たぶん同じ柄。999円。

買ったばかりの鍋を洗っていると、起きてきた後輩が、俺の様子を少しみて「気付いたことを言っていいですか」と言った。「どうぞ」と応える。

「お料理研からはおたまが失われました」

俺の手が止まる。そして、笑った。そうだ、おたまのことを忘れていた。鍋を買って、満足してしまったのだ。

最初の日に「何かおすすめのアニメはありますか?」と後輩に訊かれた俺は「氷菓」と答えている。彼は氷菓をみて、おそらく俺がおたまのことを忘れていることを状況から推測し、俺のミスを指摘するために、アニメに出てくるセリフを引用したのだ。

感心した。

「代わりに買っておきましょうか?」「ありがとう。頼む」「もしもオジキが気付いたら、白状します」「もちろん。構わない」