Change moonlight drive

11月の出張が終わり、関東に帰ってきた。あなたの話を聞いてから「思ったよりも大変なことになっていて驚いた」と率直な感想を伝えた。ひとつひとつ、整理していこう。それは俺にとって必要なことだった。複雑に感じられた状況が本当に複雑であるとは限らない。大きさや深さ、それと濃度。難易度。ひとつひとつ考えていこう。あなたには待ってもらうことになるけれど。
考えて、考えて、考えた。どうすればよいのか答えはみつからなかった。いうまでもないが、俺にできることは何もないという答えを、俺は必要としていなかった。そのことについて、俺は一切検討していない。完全に保留すると最初から決めていた。目の前に問題があると仮定する。大変なことになっていると感じたことが問題であるとする。俺にできることの有無は、おそらく本質ではなかった。問題はそこじゃない。
分かっていることがひとつだけある。それは、考える前から分かっていた。あなたが傷ついているということ。それだけは俺にも分かっていた。

目が覚めた。おなかがすいた。疲れも感じていた。不意に閃きが訪れる。これまで生きてきて、ほとんど使ったことのない言葉を思いついたのだ。「気分転換につきあってもらえる?」あなたに訊いた。あなたは「うん」と答えた。気分転換。俺は気分を転換しようと決意して何らかの行動を起こしたことがない。結果的にそうなったということはあるかもしれないが、積極的に試みたことがない。今日は、気分を転換するという目的で行動してみよう。あなたもつきあってくれるという。嬉しかった。

池袋で青い車を借りた。首都高のインターチェンジETCカードを差し忘れていたことに気づく。係員にカードを直接手渡した。「ありゃあ、これ駄目だよ。とっくに期限が切れている」気づかなかった。それはまずい。現金がない。途中でATMに寄ればいいと高をくくっていた。財布には煙草を買うお金さえ入ってなかった。他の有料道路と異なり、首都高ではクレジットカードを使うこともできない。「お金ある?」幸い、あなたが持っていた。危なかった。格好をつけたいという考えはきっとなかったけれど、それにしても格好悪いなあ。お金も計画も何もない。

具体的な目的地を決めないまま、それでも青い車は順調に東京を離れた。渋滞はなく、晴れていた。このまま、空が広く高くなればいい。禁煙車だった。サービスエリアがあるたびに車を停めて、煙草を吸った。煙草、吸ってばかりでごめんね。あなたは、いろんな話をしてくれた。たとえば車を運転するということについて。
「自分の意思で行きたいところに行けるということは素敵だと思う。失踪しようと思ったときとか」「失踪するの?」「わからない」
失踪については、昨日もあなたと話していた。彼の失踪について。俺の失踪について。
あなたが失踪したとき、俺はきっと話したいことがあったと思うだろう。話したいことがあるとも思うだろう。それは、あることに似ている。寂しいと感じる。けれど、尊重という言葉を無視することも俺にはできなかった。できることなら、できる限り、尊重したいと思っている。伝えなかった。あなたの失踪について、まだ考えている途中だったから。

「ついてきてもいい」

ん? 「あなたの失踪に、俺が同行してもいいということ?」「うん」……。なんかおかしくないか。いや、おかしくない。それなら、うん、何も問題は、ない? あるいは、俺が寂しがり屋だということを分かっていて、あなたはそういってくれたのだろうか。「失踪なう」とつぶやいた。あなたはときどき冗談をいう。

やがて、あなたは答えをみつける。あなたの提案に俺は同意した。目的地が決まったのだ。そうだね。これから向かうべき場所は、そこしかない。俺も一度行ってみたいと思っていた。「ありがとう」「ん?」「あなた、親切だね」「普通だと思う」気分転換がうまくいっているのか、自信はなかった。だけれど、あなたの表情をみて出掛けてよかったと感じた。
時間と距離の感覚は、あなたの方が正確だった。あなたが予測した通り、目的地に着いたときはすっかり日も落ちて、星をみた夜を連想するくらいに暗かった。とても暗い。

「プレゼントがある」あなたの言葉を思い出した。何もみえなかった。「ここで?」「ここで」何もみえないその夜に、俺は星の地図をいただいたのだ。星座を教えてくれた。あまりに星のことを知らなくて、あなたは呆れた。俺の目は悪いから、俺にはみえない星もあった。丁寧に教えてくれた。とても寒くて、肩掛けをお借りした。暖かくて驚いた。俺は何かを肩に掛けたことがなかったから。

車を停める。月が綺麗だった。まんまるではないお月さま。傍らには雲がある。あなたはきっと、この町のこと、この町で起こったこと、それとこの町での挑戦を思い出していたのだろう。ときどき立ち止まりながら。俺は少し後ろを歩いた。
そして、あなたに車の鍵を渡す。出掛ける前から決まっていたことだった。あなたがこの町で車を運転するということ。「本当に久し振りだから」「大丈夫」「事故を起こすかも」「保険に入っているから問題ない」「死ぬかもしれない」「構わない」「それは駄目」「駄目?」「死んだら駄目でしょう」あなたがアクセルを踏む。想定していた急発進はなかった。車は静かに走り出す。あなたが運転する車に知性のひとが同乗したときの話を思い出す。笑っては失礼だと思いながら、光景を想像するたびに笑ってしまう。
おそらく、知性のひとは俺がこれまでお会いした方のなかで最も頭の良いひとなのだ。知性のひととしか表現できないくらいに。俺の想像を絶する困難を知性で乗り越えるひと。あなたが運転するとき、そのひとは狼狽したという。あるいは恐怖もしくは激怒。ありえない。それは俺にとってクジラが空を飛ぶくらいありえないことだった。
「右の車輪は、だいたい右足の下だよ」
「うん」

青い車は時折センターライン寄りを走っていた。

やがて、大切な場所にたどり着く。俺の知らない場所。きっと、あなたにとってとても大切な場所。あなたは笑う。左に寄せるべきなのに、寄っていなかったから。俺は、いつも笑っていてほしいと思わない。あなたが悲しんでいるとき、傷ついているとき、どうしたらよいのだろうと考える。怒っているとき、俺も怒ってしまうことがある。

だけれど、いつも笑っていてほしいとは思わない。

「疲れた?」「ううん」「長く運転したときにどれくらい疲れるのか分からないの」「うーん」「疲れたでしょう?」「ダンスの稽古をしたとき、ゼロになったことがある」「うん」「仕事をしているときでもゼロになったことはない」「うん」「いまは40くらいだよ」

およそ600キロの気分転換だった。

きっとまたお出掛けしよう。あなたの大切なひとと一緒に。そのときは、あなたも運転するといい。行きたいところに行くといい。差し支えなければ、俺もついていくから。