「俺はもう、その場所にはいないんですよ」

ここ数ヶ月、お酒のアクセサリー化について考えていた。あるいは、アクセサリーではないのかもしれない。俺は、おそらくこの言葉に込められた意味をイメージすることができているが、元々俺のなかになかった言葉だからだろうか、説明するのが難しい。しかし、可能な限り具体的に書くことで、もしかしたら十分ではないにせよ、ある程度は表現できるかもしれない。

端的にいうと、『お酒を飲んでいる俺(格好いいor格好わるい)』である。

もちろん例外もあるけれど、一般的に、装飾品の類は他人の目があって、初めて意味を持つ。例外はある。誰一人みていなくても自分がみていればOKという人はいるだろうし、場合によっては身につけても一切鏡をみない、自分の目すら必要としない人だっているかもしれない。けれど、一般的には誰かがみているから、あるいは誰かが感想を持つから、装飾品を身につけるのだと思う。

お酒のアクセサリー化とは、お酒に装飾的な役割を持たせて、それを人にみてもらうという行為あるいは姿勢だと思う。もしくは、みてもらいたいという願望。お酒にいろいろな意味を持たせているということだと思う。

指摘が的を射ているというところから、俺の考えは始まっている。

幸か不幸か手元には携帯電話があり、自分がお酒を飲んでいるという事実を簡単に出力することができる。楽しいときに飲むお酒があるし、寂しいときに飲むお酒もある。けれど、思い返せば文章のなかに「楽しい」もしくは「寂しい」と書いた記憶がない。もしかしたら、一度もないかもしれない。そうではなく、飲んでいるお酒の種類や場所、聴いている音楽を書いている。いま音楽に飛び火した。音楽のアクセサリー化。読書のアクセサリー化。仕事のアクセサリー化。考えたことがなかったが、これらも十分にありうるんじゃないか? あるいは、元々そこにあって、いまそれらに名前がつけられたのではないか? とにかく、自分のなかにある何かを、あるいは状況を、直接的ではない表現で外部に出力し、共感や反感、評価を求めるということ。

アクセサリー化しているかどうかは、受ける側の印象か送る側の動機で分けられると俺は思う。受ける側がそうであると感じたり、送る側が先に書いたような動機で行為に及んでいれば、それはアクセサリー化となる。重要なのは、出力じたいが自動的にアクセサリー化となるわけではないというところだ。それはそうだ。

その夜、俺のなかにはきっと悼む気持ちがあったのだと思う。Oさんのお店に行った。店の方向を把握していない俺は、最初、Kさんのお店にたどりついてしまったのだけれど。「逆です。真逆です」「ありがとうございます」

Oさんに、いろいろと話を聞いてもらった。お酒のアクセサリー化については、その夜も上手に話すことができなかったのだが、Oさんはバーテンダーとして、あるいは友人として「あると思いますよ」と俺にいった。彼は「おそらく」と続ける。「××さんの飲んでいる姿が、楽しそうにみえないんじゃないですかね。かといって愚痴をこぼすわけでもなく、勢いに任せて何かをいうわけでもなく、ただ、お酒を飲んでいる。それが痛々しくみえるのかもしれません」なるほど。

「今日は、日本のウィスキーを飲もうと思ってきたんです」
「どうしましょう」

二人で話し合い、宮城峡に決まった。飲んだことのない酒だった。

「特攻隊のひとたちは、どういう飲み方をしたんでしょうね」
「ストレートじゃないですか?」
「Oさんはビールがいいですか?」
「いえ、おなじものを」

ショットグラスがふたつならんだ。Oさんのお店には、歌をうたう人がいた。床の間のようなスペースに収まるキーボード。「何か、リクエストを」とOさんに促され、ポストイットビートルズの曲を書いた。バンドが、もうどうにもならなくなった頃につくられた曲であると俺は認識している。歌をうたう人はフィリピンの人らしい。

「本当は、ティスティンググラスでいただいた方がよいのかもしれないのですが、どうにも俺はあのグラスが苦手で」
「××さんが特攻隊とおっしゃったので、ティスティンググラスでお出しするつもりはありませんでした」

あるいは、Oさんと一緒にお酒を飲んだ話を、書くべきではないのかもしれない。何故なら、お酒をアクセサリー化することは俺の本意ではないし、何より、アクセサリー化にOさんを巻き込みたくないと思うからだ。しかし、繰り返しになるけれど出力じたいが不本意な結果になるのではない。Oさんという素敵なバーテンダーがいるということは事実であるし、また、書くべきことであるような気がした。