言葉にもホームとアウェイがあると思う。今日うかんだ言葉は「借りもののたとえ」だった。自分で理解したいときや相手に何かを伝えたいときにたとえを用いることがある。たとえば、というように。話を聞いているとき、俺は途中から音楽に置き換えてものごとを考えていた。
「ガシャガシャとデタラメにギターを弾いて、何十分と弾き続けて、どこかで良いメロディが偶然に出来上がったとしても、それはいわゆる作曲と呼ばれる作業ではない気がする。それらのすべてが作曲にあらずと断定するつもりはないけれど、やはり一定のもしくは最低限の方向性というか目的意識というか、そういうものが必要ではないだろうか。こういう曲をつくりたいからとか、こういう詞だからとか。問題は方法じゃなくて、鼻歌でも、きっと良い曲は生まれる。デタラメであるという部分が引っ掛かるのだと思う」といったようなことを考えていた。
今日思ったのは、俺はものごとを音楽にたとえて考えて話をすることがあるけれど、俺は音楽について何かを知っているわけではないということだった。俺のあるいは相手の理解につながるのであればたとえる意味があるけれど俺がよくわからないものや身についていないものを引っ張ってきて話をするのはいかがなものか。余計にわかりにくくなるのではないか。もしくは違う話になる恐れがあるのではないか。俺にとっての音楽とは自分自身のものではない、借りものの存在ではなかろうか。棋士であれば将棋にたとえることができよう。その考え方は四間飛車に似ているね。料理人であれば、作家であれば、建築家であれば。それは別に職業の話ではなく、身についているかついていないかの話だと思う。俺には果たして、何か身に付いた言葉があるだろうかと考えてみた。何も思いつかなかった。どこかで見聞きしたことをそのまま話していないか。本当に自分の頭で考えているのか。俺の話を聞いてくれるひとがいるけれど、俺は話していいのだろうか。俺が話を聞いてほしいと思うひとは例外なく俺の好きなひとだけれど、そのひとは詰まらない思いをしていないだろうか。それどこかで読んだよと思ってはいないだろうか。
俺にとってのライヴは、演奏する場所ではなく歌を聴く場所だった。家にいたときにひとりの友達が俺を外に誘い出してくれた。冬だったと思う。南7条のライヴハウスでいくつかのバンドが演奏していた。チケットは1000円だったか1500円だったか。券を渡すとプラスチックのコインをくれた。飲み物と交換できることを教えてもらった。先日、あの頃知り合ったバンドの関係者から一通のメールが届いた。3月の下旬に都内でやるらしい。おそらく最後ですとメールに書かれていた。できることなら観に行きたいが、残念なことに、下旬、俺はあまり関東にいない。観に行けないかもしれない。だけれどもしもその日仕事が休みなら。何度も引用している彼の言葉をもう一度書く。うまく説明できないけれど本当にいい言葉だと思う。

見えない敵はあなた自身。見えない敵はあなた自身? 見えない敵はあなた自身、じゃない。見えない味方はあなた自身。

きっとまた会えるような気もしてきた。もし会うことができたなら、話す機会があったなら、自分の言葉で話したい。