とても簡単なことだと僕はいう

ひょうたんを振り続ければ、いつかロバが出てくるかもしれない。それもひとつの結果だと思う。どうせなら、片っ端からひょうたんを集めてひとつひとつくじを引くように振るのではなく、ロバが出てくるひょうたんを見分ける努力をした方がよいのではないか。振ればいいというものでもないだろう。

ただ漫然と歩いていた。靴や景色に意識を向けることなく歩いていればよいと、どこかへきっとたどり着けると。たどりつけなくても構わないと思っていたかもしれない。歩きたいときに歩けばよいと思っていたかもしれない。始めはそれでよいかもしれない。けれど、どこかで立ち止まって、もしくは始まりの場所に戻って考えるべきだった。なぜ歩くのか、どこへ行くのか。とても簡単なことだとどうして気付かないのか。歩きたいからという気持ちが仮にあったとしても、その気持ちだけでは足りないときがくる。ぼんやり歩いてもよい。いつもはまずい。何十年もぼんやり歩くという行為は、それはそれでなんらかの価値を持つかもしれないが、周到に言い訳の準備をしているようにもみえる。いやべつにどこかへ行こうと思ったわけじゃないし。いやべつに誰かに会おうと思っていたわけでもないし。仮にどこかへたどりついたなら、たまたまたどりついたその先でここが目的地だったのかと満足する。たまたま誰かがいたときは君に会うために歩いていたのだと嘘をつく。自分なりの歩き方が形になったならこれが長年探していた己の姿勢だと納得する。

半ばですらない。始まっていなかった。触れたい樫の木が都内にある。俺は樫の木を目指す。

初等です。