「泣きたいときほど涙は出なくて」

以前「あなたの優しさは彼とは違う。彼は誰にでも優しいけれど、あなたはそうじゃない」という内容の指摘を受けたことがある。どうしてだろう。ぼんやりと理由を考えていた。相手の中に共通の要素もしくは因子があるだろうか。しばらく経って、違う話をしているときに「ああ、分かった」と俺は言った。

「俺、格好悪い人に厳しいんだ」

そして、格好悪いか格好良いかを、甘えているかいないかで考えているらしいと俺は続けた。

「私の恋人、滅茶苦茶甘えん坊ですよ」

「俺には甘えてこないもの」

「たしかに」

上記のやりとりがあったのは4月の上旬である。あれから一か月近くが経過した5月1日、俺はまた甘えるということについて考えていた。ひとつの例外を除いて、俺はなるべく甘えないようにしている。そう思っていた。けれど、認識に誤りがあった。

きっかけは『飯活』である。まとめサイトか何かでこの言葉を知った俺は、少し動揺した。飯活……だと……。何らかの活動を〇活と呼ぶことはなんとなく知っていた。しかし、これは……。バブル時代の再来なのか。

友達に連絡した。

「社会が俺を殺しに来ている」

友達からは「あなたは大丈夫」という内容の返事があった。少し落ち着いた。そして、今、俺は友達に甘えたということを自覚した。「大丈夫」という言葉を要求したつもりはなかった。だけれど、結果的に甘えていた。さらに気づく。ああ、そうか、そうだったのか。俺が誰にでも優しいわけではないという指摘、俺が思う格好悪い人。これ、同属嫌悪だったんだ。そうだったんだ。自分に似ている奴が気に食わないということだったのか。もしくは「泣きたいのはこっちの方だ」という逆恨みかもしれない。いやはや、まいったね。よろしくない。