「いらないと思える以上は何かしら興味があるものさ」

「××さんは、いつも振られた話を書いていますね」

草野球友達に言われて「はて?」と考えた。草野球友達。いや、俺は、野球をやったことがない。たまに、応援に行くだけだ。草野球をやっている友達。いや、彼を友達と呼んでいいのだろうか。何度か一緒に酒を飲んだことがある人。草野球をやっている飲み友達。あるいは、知人。いや、俺の中にはそれなりの親しみがある。やはり、友人か。ともかく。彼からそんなことを言われた俺は「はて」と考えた。

俺、そんなに振られた話を書いているだろうか?

否定の気持ちがあったから俺は疑問に思ったのだろう。それほど多くは書いていないつもりだった。

それでは、彼が間違っているのだろうか?

ここにも疑問符が残っている。俺は、彼が誤っていると思いつつ、そんなはずはないとも推定していた。それは、俺が彼のことを信じているからだろう。それほど親しくはないけれど、だけれど、彼はそんなふうには間違えないという信頼があった。

俺は、彼が言うほどに振られた話を書いていない。けれど、彼が間違っているとも思えない。

どういうことだろう。一日考えていた。

そういうことか? と閃いた。

対象が違うのかもしれない。

俺が「振られた」と感じるとき、その相手は人である。それも、好きな人。嫌いな人とうまくいかなくても俺は「振られた」と感じない。好きな人がいて、その人とうまくいかなかったとき、相手にされなかったとき、受け入れてもらえなかったとき、俺は「振られた」と感じる。

ここで、反転させてみる。

うまくいったとき、相手にされたとき、受け入れてもらえたとき。
しっかりカウントしていないから、俺の閃きは推量に留まる。けれど、きっと、方向は間違っていないと思う。

比率として、俺は、うまくいった話、相手にされた話、受け入れてもらった話、これらの話よりも、うまくいかなかった話、相手にされなかった話、受け入れてもらえなかった話を多く書いているのではないか? たとえば。

今日も仕事がうまくいかなかった。

と思うようなことがあったとする。ここでポイントとなるのは、俺は、時として具体的な内容を曖昧な内容に変換するケースがあるということだ。自分以外の誰かが読む文章には多かれ少なかれ制限が加えられる。そして、上記の文章に俺が制限を加えた場合、こうなる。

今日もうまくいかなかった。

対象となる仕事をぼかした場合、こうなる。あるいは仕事じゃないかもしれない。酒との付き合い方かもしれないし、音楽との関わり方かもしれない。いいや、日記を書くという行為についてかもしれない。いずれにしても、すべてを書いて良いと、俺が思うとは限らない。

仮に、俺が日記について書いているとしたら。対象となる日記の部分を曖昧にぼかしていたら。
仮に、読み手が日記を書かない人だったら。

今日も好きな人とうまくいかなかった。

と読み取る可能性は十分に考えられる。たとえ話が混じったけれど、結果として、

俺は、彼が言うほどに振られた話を書いていない。けれど、彼が間違っているとも思えない。

というような状況が生まれるのではないだろうか。

きっと答え合わせをすることにはならないだろう。答え合わせをするほどに親しくはないし、彼もそこまで求めていないだろうと考えるからだ。
ふと思いついて、「世界に振られた人」という言葉で検索してみた。検索結果に限られた話ではあるが、現時点で、該当者はいなかった。そりゃそうだ。