サイレントムービーと同調する彼、これが才ではなく何だというのだ

無言劇とはパントマイムを指すのか。なるほどとひとり納得。

世の中には、猫を模した踊りが存在する。とある舞台のとある演目で、俺は猫の踊りをみた。かわいい。踊った後の礼も猫。かわいい。踊った子供たちを尊敬するが、振りを考えた先生の凄さを思い知った一日だった。

北海道から埼玉にきて、縁あっていろいろな舞台をみる機会に恵まれている。

一言に舞台といっても、まったく一言では済まない。

かつて海外で暮らしていたひとの話を聞いたことがある。

「英語を聞く。英語は頭の中で日本語に変換されて相手が何を話しているのか理解する。自分が伝えたいことは日本語で浮かび、それを英語に変換して相手に伝える。でも、長く英語を聞いていると日本語を仲介しなくなるんだ。理解するためや伝えるために日本語を経由せずに、英語を聞いて英語で答えるという状態になる。ただ、触れ続けていないと速度は衰えるよ。日本に帰ってきて、英語との距離が発生すると、また日本語を間に挟まないといけないようになる」

俺にとっての最も身近な舞台は音楽だった。

立つほうではなく、聴くほう。

たとえば演劇をみるとき、俺は、セッティングや音響、照明をライブと比較していた。おそらくは無意識ではなく意識的に。こういう照らし方があるのか。こういう鳴らし方があるのか。それが理解する早道だと思ったからである。けれど、やがて演劇は演劇として、ダンスはダンスとしてみるようになった気がする。ひとつは、仲介を必要と感じなくなったこと。ひとつは、早道を選ぶ必要がないと考えを改めたこと。持ち帰ることは、好きなひとから教わった。

何年か前に、俺はとある戯曲をみて悪意を感じた。結論としては、それはまったく悪意ではなかったのだが、当時の俺は悪意であると思った。それは、みるひとの意思に関わらず持ち帰るように作られていると勘違いしたからだった。

持ち帰るか否かを選ぶのはみるひとであり、作者ではない。だが、この作者はみるひとに対して持ち帰るか否か、選択するチャンスを与えていない。自動的にあるいは強制的に持ち帰るようにつくられている。そんな勘違いだった。

チャンスは与えられていた。

思考を停止する自由も、持ち帰らない選択肢も、放棄する権利もしっかりそこにはあった。話が逸れた。

好きなひとと猫の踊りの話になった。

好きなひとも、猫の踊りを改めてみたらしい。「みたよ」と好きなひとは猫の踊りの要素をひとつ、形にした。「もうやらないの?」と俺は問う。好きなひとは「いや、またやるんじゃないかな」と答えた。そういう意味じゃなくてと俺は言葉を探す。そうしている間に、話は進んでいった。そういう意味じゃなくて。俺が言いたかったのは。

好きなひとは、猫の踊りを再現したのだ。それがとてもかわいかったから、もう一度やってと言いたかった。うまく伝えることができなかった。