「少しだけ平気な様子でいよう」

午前3時頃に仕事を終えて、一度家に帰る。4時を待ち、バス停に向かう。羽田へ。たまには帰れと組まれた北海道出張。新千歳空港に到着したのが8時すぎ。機内では寝なかった、少し、眠い。

外で煙草を一本吸ってから電車に乗った。「快速エアポートは特急じゃないから普通乗車券でOK」という内容のアナウンスが流れている。席が空いていた。座る。向かい側に座った男の子は三人組だろうか。「長旅になるね」と言っていた。どこへ行くのだろう。一席空けた端に、もう一人の男。彼が厄介だった。

南千歳か、千歳か。忘れてしまったけれど何人かの客が新たに乗る。俺の右隣には女性が座った。眠ったら小樽に行ってしまうかもしれないと考えた俺はブラック・ラグーンの11巻を読んでいた。読み終わったので、ドリフターズを1巻から読み返した。

「ちょっといいですか!」

突然、隣の女性に男が声を掛けてきた。声は、だいぶん大きい。何事だ? 恐らく眠りかけていたのだろう、彼女は驚いていた。向かい側の端に座っていた男だと分かったのはしばらく経ってからである。男は、おそらく20代半ばから30代前半、格好は比較的いかつい。話している内容が若干支離滅裂で、目的が分からない。ナンパのような感じもするし、そうじゃない気もする。以下は原文ままではない。

「昨日、埼玉スーパーアリーナで××のコンサートを見てきてですね。××の電話番号知りたくないですか? 向かいに座っている彼が、あなたのこと好きなんです。彼と連絡先を交換してください」

酒に酔った感じではない。少なくとも、俺の知る酔っぱらいとは異なっていた。彼女は、やんわりと拒絶の意思を示していた。そりゃそうだ、なんなんだ、この人は。男は女性の前に立ったまま、お構いなしにしゃべり続ける。

タブレットをしまった。昨日の夜から働いている。うっすらヒゲが生えているし、煙草の匂いがするだろうし、ビールも二杯くらい飲んでいるし、可能であれば誰も俺には近寄りたくないだろうなという自覚はあった。だけれど、ほんの少しだけ、女性の方に身体を近づけた、お互いの腕が触れるように。普段だったら、絶対にしない。不愉快だろうから。想像通り、彼女は震えていた。彼が目を離した隙を狙い、腕で合図し、女性に携帯電話の画面をみせた。メモで打った文章。

「たぶん、襲ってはこないと思う」

画面を見た女性は小さくうなずいた。薬物だろうか? 朝っぱらから? いや、昼も夜も関係ないか。男はリュックからリストバンドを取り出し、女性に無理矢理渡した。

「コンサートで買ってきたんですよ。あげます。一生大事にしてくださいね。とても良いものだから」
「そんな大切なもの、いただけません。お返しします」
「いいんですいいんです。名前はなんていうんですか? そうですか、答えたくないですか。いいんですいいんです」

電車は動いている。前には男が立っている。逃げ場がない。彼女は、男を刺激しないように気をつけているように感じられた。俺はもう一度画面をみせた。

「札幌まで?」

首肯がもう一度返ってきた。二択。
仮に「お嬢さんが嫌がっているじゃないか」と言い、男の首根っこをつかまえて女性から遠ざけるとしたら。パソコン、壊れたら嫌だな、買ったばかりなんだ。眼鏡。眼鏡くらいだったら構わない。やるなら、停車する直前。じゃないと、他の人たちにまで飛び火してしまうかもしれない。被害の範囲が読めない、また、俺が自分の荷物を抱えた状態で男をつまみ出せるかどうかも微妙なラインだった。もう一つの方を選んだ。こっちの方が穏やかだ。怖いと思うけれど、もう少しだけ。
札幌駅の手前、苗穂をすぎたあたりで俺は席を立った。男は、女性の正面から左手前に移動していた。俺は、男とも女性とも目を合わせていない。棚の上に置いていたジャケットを着て、ふぁっきゅんトートを肩に掛ける。次で降りるから準備を早めに始めたように。男は俺の背後にいる。座っている彼女と立っている彼の間に、俺はいた。ライブの時は「無駄に大きくてすまん。ステージ見えにくいよね」と申し訳ない気持ちになっているけれど、この時だけは俺の横幅が役に立つはずだ。俺が立ったことで、彼女の左隣が空いた。男は向かい側に座っていた三人組の一人に声を掛ける。

「空いたよ! 席空いたよ! 彼女の隣。座りなよ!!」

今なら分かる。彼らも、おそらく巻き込まれたのだろう。動きはなかった。
「なんだよ、照れてんのかよ」
男がそう言ったかどうかは、覚えていない。覚えていないが、彼は女性の隣に座った。大丈夫、予定通り。その方が話しかけやすいよね。もうすぐ札幌駅に到着する。女性が席を立つ。俺は彼女の後ろを歩いた。男と女性の間にいる状態を常に保つ。

女性が降りてから俺も降りた。もう一人、心配していたサラリーマンがいた。リストバンドは彼が処分してくれた。我々が右と左を固める形になった。男は、付いてこなかった。

電車が走り出してから彼女に声を掛けた。

「怖かったね」
「はい‥‥」
「ありゃ怖いわ。早く忘れた方がいい」
「はい。ありがとうございます」
「俺、●●までだから。それじゃあね」
「本当にありがとうございます」
笑うの、あんまり得意じゃないけれど。笑って手を振った。じゃあね、バイバイ。

荷物をおろしてしまえばこっちのもんだ。もしも男が付いてきたら「ここは俺にまかせて先に行け」作戦に切り替えるつもりだった。煙草を一本吸って、俺は次の電車に乗った。札幌駅構内には、まだ喫煙所がある。最寄り駅から実家までの帰り道、青空の下、雪が降っていた。

寝て起きて夜。俺は蝦夷天酒場 夢助に行った。店主の真大さんは、元テキヤ。年齢は俺の七つ上、だろうか。店内は潔いまでに右寄りで、天ぷらがおいしいのに食べられるとは限らない面白い店だ。料理の腕は確か。おでん、姫ほっけ、卵焼き。全部おいしかった。普段は飲まない焼酎のお湯割りを頼む。俺は、麦よりも芋の方が飲みやすかった。酒々しくない。

「真大さんみたいにはできなかったけれど」
「頑張ったね」