「話したいこと、山のようにあったけれど」

我が家の大掃除を敢行した。3月29日に開始、4月7日に完了。大変だった。

2016年の9月、友人の来訪を機にできるだけのことをやったのだけれど、十分ではなかった。そのときは友人が掃除軍曹となり、部屋が綺麗になった。

「あとはお風呂場の維持だね」

「頑張る。感謝している」

あれから3年、俺の部屋は秩序を失った。約束を破るつもりはなかったのだけれど、あのときよりはマシなのだけれど、結果的には破ってしまったのかもしれない。人を呼べない空間になった。出張が終わると「帰ってきた!」と安堵するより「きたねーな」という思いが先に立つ。ここよりも散らかっている部屋を俺は知らない。休日はベローチェや居酒屋にいることが多かった。

掃除と並行して自炊も再開した。賞味期限の切れた調味料から推測するに、4年か5年ぶりである。ほぼ毎日、家で食べている。

「どうして、突然自炊を始めたんですか?」

友達に訊かれた。

「掃除していたら贈り物のフライパンが発掘されたから」

異なる日、同僚にも訊かれた。

「どうして掃除を?」

俺は「なんとなく」と答えただろうか。覚えていない。もしそうなら、本当のことを言っていない。正しくは「自分のため」である。そしてそれは「友達のため」を経由している。あの日、二日間ほど泊めてもらえないだろうかと友人に言われたときと動機の質は変わらない。友達のためにシェルターをつくろう、そう思った。そんな日は来ない方がいい。そう思いながら掃除した。

4月5日の午前中、会社の車を借りて、粗大ゴミを捨てに行った。さいたま市の桜環境センター。桜並木が延々と続いていた。1キロくらいだろうか。綺麗だった。身分証を提示し、施設の中へ。誘導されるまま駐車する。そこには二人か三人の職員がいて、てきぱきとゴミを受け取ってくれる。凄いなあ。ゴミを捨てた後は、また車に乗って精算機が備え付けられている出口へ。コインパーキングのような感じ。無料だった。レシートを見た俺は、しばらく経って意味を理解し、また感心した。

総重量 1,680キロ

空車重量 1,640キロ

正味重量 40キロ

そういうことか! ゴミを捨てる前と捨てた後の車の重さを比べて計算しているのだ。常識かもしれないけれど、知らなかった。本当に、知らないことばかりだ。しかし、いつの間に車の重さを量ったのだろう。まったく気が付かなかった。

入口に一人、誘導する人が一人、ゴミ捨て場に三人、出口に一人。それと施設。俺のゴミを処分するために、想像を絶するお金が掛かっているのだろう。税金大事だなあと感じた。ふだんから週に二回か三回、ゴミを捨てているのだけれど改めてそう感じた。

「部屋、片付いたよ」

友達に報告する。お給料が入ったらランタンを買おう。ユニットバスの電気が点かないのだ。そして5月か6月に、きっとエアコンを直そう。

「ペットボトルが山盛りならば」

「深爪さんの部屋が綺麗だったら転がり込んでいたのに」

友達の冗談に俺は応える。

「俺のことを信じてくれるのはありがたいけれど、余計にこじれるんじゃないか」

部屋が汚い。病的に汚い。ゴミの地層こそ形成していないものの、ゴミとゴミじゃないものが混然一体となっている。いつだったか「それはたぶん全部ゴミだよ」と越川くんに言われた。たしかに、その通りかもしれない。

部屋が汚いことを友達は知っている。彼らが部屋に訪れることを俺が本当に嫌がっていることも知っている。年末に大掃除をやろうと思っていた。やらなかった。さぼったのだ。

最後に布団を干したのはいつだろう。床を拭いたのは。思い出せなかった。

友達の冗談について考える。

彼女が俺の部屋に来ることはきっとないだろう。だけれども。

「逃げ場所がないというのはしんどいもんだ。掃除しておくから好きなときに使っていいよ。俺がいなくてもいい」

俺はそこにいない方がいい。こっちは、言わなかった。

そんなわけで掃除を始めた。5月1日を締め切りに設定している。メーデー、メーデー。冗談です。俺は助けを求めていないし、シュプレヒコールにも興味がない。一度の掃除で45リットルのゴミ袋が二つずつ出来上がっている。

掃除が終わったら、きっと友達に伝えよう。

「部屋は片付いたけれど、エアコンは壊れているよ」

「次はきみの番だと笑っている」

アパートの近くにあるコンビニに寄ると見覚えのあるリュックサックを背負っている人がいた。北欧のリュックサック、モスグリーンのコート。彼女はおにぎりコーナーにいた。顔はみえないけれど、髪の長さと色も記憶と一致した。ただし、まっすぐだった。友達の髪はまっすぐじゃない。服装も、ちょっと違った。俺は一度店を出た。他人の空似だよな。もう一度店に入って、アイスコーヒーを買った。別人だった。

「きみに似ている人がいた。でも髪がストレートだったし、ジーンズをはいていたし、違う人だった」

「飲んでいます。この後、友達と合流するんですけど、一緒に飲みませんか?」

その日、俺は眠かった。夜勤が終わって3時間くらい寝て起きて日勤を終えたのだ。5時間勤務。

「客が私しかいないんです。きてー。早くきてー」

それではお友達が来るまでと彼女に伝えた。

「一回店を出たんですか?」

「うん」

「不審者すぎる」

「ね」

「その時間に私がおにぎりを買うことはありえません」

「そうなのか。後ろ姿、似ていた」

「あの」

「うん」

「怒るかもしれないんですけど」

「ん?」

「もう一回、録り直したいです」

「怒らないよ。納得がいかない?」

「はい」

「あんまり、内緒ごとを押し付けたくないんだけど、彼に言わないなら」

「気にしすぎだと思いますよ」

俺は訂正しなかった。彼のことはあまり考えていない。きみのことを考えている。もう、あんなふうに弱っているところを見たくなかった。

「やろう。もう一度」

「はい」

俺は理解を求めていないのかもしれない。それは、あるいは怠惰かもしれない。お別れの挨拶を、俺は既に済ませている。だから大丈夫。もう大丈夫。もう一度、やろう。

「やばいことになっちまった。トニーの奴がしくじった」

約束を破ってしまった。二度寝。カレーが終わる時間に起きた。
真大さんには言ってなかったが、その日は正人さんとも約束していた。
「俺、火曜休みだから。一緒に飲みましょう」
「それならカレーを食べに行こう。19時半までやっているって。一人で行くつもりだったのだけど」
「真大さんのお店を○○さんが借りるって話ですよね。彼のことは俺も知っています。行きましょう」
正人さんについては、前にも書いたことがあると思う。彼のお店は先日14周年を迎えた。入れ替わりが激しいと言われているススキノでそれだけ長い期間看板を掲げているのは凄いと思う。俺は出張の時にチャンスがあれば顔を見にいくが、頻度を考えれば常連客というほどではないだろう。それでも、彼は俺のことを覚えている。思えば、そうだな、俺のことを覚えてくれている店主は多い。覚えて欲しいとは思っていないし、覚えてもらうように何かをしているつもりもないのだが。彼らは、やはりプロなのだ。
何より俺を誘ってくれたことが嬉しかった。仕事上、休みの日に客と付き合うことは少なくないと想像している。だけれど、なんというか、嬉しかった。仕事の外にある話であるかもしれないからだ。俺も彼も夜働いている。夕方集合は早いと思っていたが、さすがに起きられるだろう。目覚ましも三重に掛けた。
結果は先に書いた通りだ。寝坊した。まずいなあ。
「寝すぎました。すみません!」
正人さんから連絡があったのは、19時45分。君もか。笑う余裕はなかった。正直に言うと、連絡があるまで俺との約束を正人さんが忘れていてもおかしくないと思っていた。我々はお酒を飲んでいた。侮っていたことを、今度会った時に謝らなければならない。
「俺も今起きた。こっちこそごめん」
二人とも、どうしようもない。
「とりあえず、謝ってくる。正人さんとの約束は真大さんに話していない。俺に何かあったら骨は拾ってくれ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
真大さん、武闘派だからなあ。これは比喩ではなく事実だ。合気柔術の師範らしい。いくつかの崩し方を見せてくれたのだけれど「ああ、これ武道だ」と俺は思った。容赦ないというか、手段を選ばないというか。不安じゃなかったと言えば嘘になるけれど、だけれど自分が正しいと思うことをしよう。電話じゃ駄目だ。
お店についたのは21時くらい。お客さんは俺の他に三人いた。
「真大さん、ごめんなさい」
「ん?」
「約束を破りました」
「ん。ああ」
真大さんは「いいよ」とにっこり笑った。「覚えていて、ちゃんと店に来たんだものね」お客さんの一人が言った。
「飲んでいきなよ」
カレーはしっかり繁盛していたらしい。午前中に真大さんが様子を見に行くと満席で、彼が手伝ったとか手伝っていないとか。普段は平岸でお店をやっているらしい。なるほど。
約束はしない。懲りた。けれど、行こう。平岸。これは、誰にも言っていない。
瓶ビールを一本、むぎ焼酎のお湯割を一杯。真大さんは、水を鍋であたためていた。
「もう帰るのかい?」
「明日、来れるかもです。これ、約束じゃないですからね」
「俺、約束したって思っちゃうんだよなあ」
「約束じゃないですからね!!」
真大さんはいつも通り、俺をエレベータまで見送ってくれた。
23時45分ごろ、正人さんから改めて連絡があった。
「二度寝して、今、飲んでます」
今度は、俺は笑うことができた。
「真大さんとのことは大丈夫。約束が先延ばしになるって、楽しみでしかないよね」
いつか、一緒にお酒が飲めたらいいね。

「殺したくなるような夕暮れの赤」

北海道出張の際、いつもは実家の車を借りているのだが今回は車がないため電車で通勤している。始発待ち。営業所にいてもよいけれど俺は仕事が終わったら退社するようにしている。電車に合わせて仕事をする気力はない。

3月7日(紗南の日であることは十年くらい前にも書いたかもしれない)の午前3時半、会社を出た俺はすすきのにある真大さんの店に行った。午前4時までやっている天ぷら屋さん。ただし、天ぷらがあるとは限らない。店に着いたのはちょうど閉店の時間だった。ご挨拶だけでもと思い扉を引く。キャップ帽をかぶった男性がカウンター席に座り、カラオケを歌っていた。ひとり。

このお店、カラオケあったっけ? 男性が「ん」とこちらをみる。真大さんであると気づくまで数秒を要した。彼は和のイメージが強い。俺のことを思い出してくれた店主はカラオケを停めて「おう、とりあえず歌え」と言った。

カウンターには栓の開いたビール瓶が数本。そのうち二本はまだ中身が残っていた。ちょっと前まで数人のお客さんがいたらしい。「飲みに行こうよ」誘われた彼はひとりカラオケを選んだとのこと。

真大さんが出してくれたビールは最初の一本だけだった。「あとは勝手に飲め」良いのだろうか。良いのだろう。店仕舞いの時間である。長居するつもりはなかったが、帰る気配が一向にない。何度かうながしてはみたけれど、我々は8時過ぎまで歌い、飲んだ。

俺は「ご存知ないかもしれませんが」と断って『迷惑でしょうが』を歌った。彼は知っていた。比較的長渕剛も好きだと聞き『家族』も歌った。どちらも、ほとんど歌わない。真大さんは一緒に歌ってくれた。

「これなんすか?」A4に印刷されたチラシ。カレー? 弟分なのか後輩なのか、分からないけれど、一日この店を貸すと言う。

「火曜日か。たしか休みだったから来ますよ」

「3杯」

「3杯!?」

「そしたら俺7杯でいいべや」

どれくらい客が来るのか真大さんは案じていたらしく、ひとりで10杯食べるつもりだったらしい。

「でも、真大さんの名前、出してほしくないんですよね?」

「うん。何か言われたら通りすがりの者ですと答えろ」

「怪しすぎる」

3杯いけるかどうかは分からないけれど、約束は守るつもりだ。

あれ、誰か誘えばいいんじゃないかと後になって思ったけれど、きっと、俺はひとりで行くのだろう。

ところで、カラオケは今年の1月に導入したらしい。マイクの設定がちょうど良かった。たぶんこれくらいだろう。俺はビールの代金をカウンターに置いた。真大さんは「多いよ」と少しだけ嫌そうな顔をした。

「山岡屋いくぞ」

一緒にラーメンを食べて解散。「つぎはどこに行こうか」と彼が言い、丁重に断ったのは9時半くらいだった。

「孤独の数ほど、飲み屋はあるけれど」

久し振りの大阪出張。月の半分くらいは出張であちこちに行っていることが多いけれど、別段大阪営業所から出入禁止処分を受けたわけでもなく、たまたまである。調べてみると仕事で訪れるのは昨年の七月以来だった。

新大阪駅を出て北に進むと東三国という町がある。歩いて15分から20分くらい。俺の好きなお店はそこにあった。土地勘がなくて、方向音痴で、たまたまみつけたのは何年前だろう。

「たまたま」という言葉を意識的に二回使ったが、偶然と必然の境界線は曖昧で区別が難しい。俺が言っている「たまたま」は、本当に「たまたま」なんだろうか。他には何も混じっていない、純粋な「たまたま」なんてあるのだろうか。

俺よりも少し年上の店長は元役者。話していて面白いし、料理もおいしい。何より、店長が元気だったらという条件付きではあるけれど、俺の仕事が終わった時間帯でも店が開いているということがありがたい。ほとんど、ない。

「あけましておめでとうございます」挨拶すると「声ちっさ!」という応答があった。元気そうで良かった。

「瓶ビールでいいですか?」

「ありがとうございます」

俺が頼む飲み物を覚えてくれていた。他、鳥ムネ肉の石焼きとアボカドわさびも注文した。

「久し振りですね」

「俺、昨年の冬にきていますか?」

話をしているときは、思い出せなかった。

「いいえ、たぶんいらしてないです」

「そっか。たまたまなんですよ」

「仕事、やめたのかなと思っていました」

「一応、まだやっています」

後日、「仕事をやめてもきっときますよ」と話したら「こないでしょ! 大阪」と。どうだろう、分からない。

「俺、間違ったかもしれなくて」

「はい」

「自分のことを『おっちゃん』って言ったら、相手、少し嫌そうな顔をしたんだよね。別に自分をおとしめるつもりはなかったのだけれど」

彼が考えるおっちゃん論を教えてくれた。なるほど、一理ある。年齢をあらわす言葉としてのおっちゃんと、身分を定める言葉としてのおっちゃん。

「率直に、年齢を言った方がよかったかもですね」

「そうだね。気をつけるよ」

「ねえ店長」

「はい」

「スケジュールの兼ね合いで俺は来ていなかったわけだけど、もし、俺が塀の中にいたとしても分からないよね」

「分からないですね。手紙ください」

「手紙か。分かった、書くよ」

「そうしたら僕もお返事書きます。よくない言葉をいっぱい使います」

「墨が入って真っ黒になっちゃうね」

「はい」

「内容を知りたければ出所してから直接話を聞きにこいってことかもしれないな」

会計を払い、俺は「気になるなあ、中身」とつぶやいた。「まだ書いていないです」店長は笑った。

「もしも今日があの日の続きなら」

昨年の11月10日、同級生のIと新橋で会った。同僚のことで相談したいことがあったから。なんだか、ここ数年で周囲の揉め事が増えているような気もする。

「久しぶり」

Iが手を差し出す。握手。我々が会うのはいつぶりだろう。14歳か15歳じゃないだろうか。四半世紀という言葉が身近になった。

相談を終え、同窓会の話をする。俺は、ほとんど同窓会というものに参加したことがない。

「Tも呼んでやろう、同窓会。2月に」

「2月というのは?」

「12月も1月も、バタバタしているかもしれない。3月は3月で年度末だし」

俺は、IとTが忙しいことを知っていた。二人とも、尋常じゃなく働いている。Tの休日は年間5日か6日だったらしい、後で聞いた。止めるつもりはないけれど、どうかしてる。

北海道を出た人たちで集まろうという話は何度か挙がっていたのだけれど、どれも立ち消えというか、実現には至らなかった。今度は俺がやる、俺が声を掛けるよ。そう言った。

1月の中旬に候補日をあげた。平日と土日。運が良かったのだろう。二人とも空いている日があった。俺は、休日申請を出した。

17時45分、集合。場所は都内。我々は約束を交わした。

2月13日、同窓会当日。17時20分にTから「今新宿を出た」という連絡があった。

「時間通りだね」と返すと「たぶん間に合わない、すまぬ」と。問題ない。おそらくIも時間と戦っているはずだ。聞かなくても分かる。ややあってIからも連絡があった。「どうやっても間に合わない!! ごめん!!!」問題ない、想定内だ。

少々の無理を通さないと集まることさえできないことは分かっていた。

ここからTとIのデッドヒートが始まる。おそらく、二人ともタクシーに乗っている。

「タクシーの運転手に急ぐよう言う」

「それはやめろw」

お店にはもう連絡してある。二人ともゆっくりおいで。

無事集合、我々の同窓会は18時半くらいに始まった。

昔の話はあんまりしなかった。なんというか、同級生という関係は、環境にすぎない。共有は関係で完結している。範囲を話題にまで拡張する必要はないと考えていた。Tが前職(前々職かな?)の話をしてくれた。

「売れるまで帰ってくるなっていう会社でさ」

「うん」

「夜になると、飛び込むところがなくなってくるんだ」

「うん」

「23時をすぎたあたりから、本当に行くところがなくなって」

「うん」

「セイコーマートに行った」

セイコーマートとは、北海道が誇るコンビニである。Tは笑って話していたけれど、コンビニの、おそらくはアルバイトスタッフに飛び込み営業を掛けるエピソードは壮絶というより他にない。

「そうしたら、オーナーの方が店の上に住んでいて」

「うんうん」

「警察を呼ぶ騒ぎにもなりかけたんだけど」

「うん」

「売れたんだ、防犯カメラ」

話を聞いている俺は、きっと少しだけぼんやりしていた。今なら「君みたいな営業さんが来るんだ。必要だね、防犯カメラ」と返したのに。

ホテルを取っていたTと別れ、Iと共に電車に乗る。

「ねえ」

「うん」

「俺たちの乗っている電車、逆だね」

Iが俺の腕をぱしんと叩いた。おかしかった。俺が間違うならまだしも、こんなにしっかりしているIが間違えるなんて。少し、飲みすぎたのかな。ほとんど二人で八合くらい日本酒を飲んだものね。

「恵比寿から帰ろうか」

「そうだね」

「君の仕事は、本当に凄いと思っている」

「確率の話だよ」

俺はきっと「同級生の中に君のような仕事をしている人がいるなんて凄い」ということが言いたかったのだ。それに対し、彼は「俺たちの同級生は400人くらいいる。そりゃいるさ」と応えたのだろう。

二人と別れた俺は埼玉を目指す。

ご飯を食べて帰ろう。西口の吉野家に寄った。

座っているお客さんをちらっとみた俺は桜さんの持っているリュックサックと似ているなあと思った。離れて座る。トイレから出てきた男性に声を掛けられた。俺の知っている二人だった。

桜さんは「すみません」と店の人に声を掛ける。お茶とお水のおかわりを頼んでいた。会計を済ませた俺は彼女に言う。

「良かった。定食のおかわりだったらどうしようかと不安になった」

「頼みませんよ」と彼女は笑う。そして「食べられますけどね」と続けた。

「その手は大事な人とつなぐためにある」

山口雅也の『生ける屍の死』を読み終えた。

初めて推理小説を読んだのは、きっと中学生の頃だった。

俺が日記を書き始めたのは20代の半ばである。残念なことに、日記以前の記録は残っていない。だから、俺の話には「おそらく当時はこうだった」という類の想像が大量に混ざっている。

推理小説を読んでみよう。そう思ったのは漫画でミステリが流行っていたことも関係していたと思う。だけれど、俺はいわゆる古典から入らなかった。学校の図書館で借りたのは綾辻行人の『十角館の殺人』だった。たぶん文庫。表紙を見ただけでわくわくしていたような気がする。

新本格というジャンルを知った。そこから、俺の講談社ツアーが始まった。我孫子武丸、法月綸太郎、有栖川有栖。一通り読んだ。我孫子武丸はゲームの『かまちたちの夜』も手掛けていたと記憶している。ゲームでこんなことができるのか! 面白かったし、俺も作ってみたいなあと憧れた。たぶん。綾辻以降の順番は記憶が曖昧なのだけれど、新本格に限らず、島田荘司、東野圭吾、京極夏彦、清涼院流水もこの時期に読んでいる。森博嗣は高校かな。清涼院流水はひどかった。漫画では当たり前の手法として使用されるコピーアンドペースト。彼は小説でコピペをやっていた。衝撃である。もし彼の作品が適切な誰かの手によってリメイクされたなら、それは素晴らしい作品に仕上がることだろう。

このように、俺が読んできたほとんどの小説は講談社文庫もしくは講談社ノベルスだった。別段、信者だったわけでもないのだけれど。どうしてだろうね。売り方が上手だったのかな。

当時は今と違いウィキがなかったし、俺に面白い本を教えてくれる人もいなかった。もしくは、俺が訊かなかった。そんな俺を導いてくれたのはもっぱら文庫本の解説だった。解説している人が書いてる小説に興味を持ったり、解説の中に出てくる小説を探したり。

『生ける屍の死』を知ったのもそのようなルートのどこか一点だったのだろう。

俺は緊張した。たぶんだけれど。なぜなら、この小説は講談社ではなく創元社だったからである。創元推理文庫。ついに俺も講談社を離れる日が訪れたのか。そう思ったかどうかは定かじゃない、おそらく思っていない。緊張したのは嘘じゃない。

当時の帯に書かれた文を引用する。

『このミステリーが凄い! '98』過去10年のベスト20【国内編】1位

死者が次々と甦る!?

手元にある文庫本は2000年に刷られているので俺がこの小説を読んだのは最も早くて19年前。記憶が確かなら平積みされていた。

再読した理由は、友達に薦める小説として相応しいか否かの判断ができなかったから。課題図書を交換する約束については前に書いた。5分の1ほど読み終わったところで薦めた。たぶん、合っている。読んでいる途中で思い出したのだけれど、俺はこの小説を越川くんにも薦めている。そして、彼と彼女とでは、薦めた理由が異なる。越川くんに読んで欲しいと思ったのは、彼がロックだったから。もしくは、俺の知っているロックと一致していたから。彼女に薦めたのは、彼女はきっと死生学にも興味があるから。

「おすすめの推理小説を教えて」と言われたのだけれど、斬新なトリックとか、どんでん返しとか、そっち方面では考えなかった。推理小説には多かれ少なかれ縛りがある。そしてその一つに「人物を描きすぎるのはよろしくない」というものがあると俺は思っている。友達は、もしかしたら純粋なパズルとしての推理小説を求めていたかもしれない。不十分だ、どうしよう、悩んだ。

俺が薦めた夜、彼女は書店で買ったという。

「このミスの、この30年の1位に選ばれたんだね。楽しみだ」

友達の言葉に驚いた。記録が更新されている。過去30年の1位は、なんというか、凄くないか。おすすめの音楽を訊かれて考えに考えた結果ビートルズを薦めてしまったときのような恥ずかしさもあったけれど、彼女は推理小説を読んだことがほぼないと言っていたし、俺が言わなかったら買わなかったかもしれない。良しとしよう。

「これ、元々は英語で書かれたものなのかな?」

「和訳された本に似ている文体だと俺も感じた」

「うっかり下巻の裏にある粗筋を目にしてしまってさ……。一行目に大事なことを書くのはやめて欲しい」

「上下巻に分かれたんだね。俺が持っている本の紹介にも壮大なネタバレがあるよ」

「なんてこった」

俺は先の話に触れないよう慎重に話していたのだけれど、我々の「うわあ」が同じものであったことを後に知る。笑った。

そういうわけで2月8日の15時前、俺の再読が終わった。

ラストシーンは記憶通りだった。だけれどその情景は遠くから見ているものであり、彼らがどのような話をしているのか、どのような状況におかれていたのか、いずれも記憶とは違った。そうか、この物語はこのようにして終わったのか。

読んでいていたたまれないシーンもあった。推理小説という仕様上、その場面はサラッと描かれている。

死んでしまったら話すことができない。そんなことは分かっている。

彼らが暮らす町は違う。死者は甦る。話すことができる。それではBLANKEY JET CITYが歌うような状況なのか。

生きているときと死んでいるときが実はそんなに変わらないものだとしたら?

俺の答えはノーだ。生きているときと死んでいるときは違う。作中で展開される死生学にならえばイエスかもしれない。でも違う。異なっている点はどこにあるのか。

これは比喩だけれど、死んでしまった彼は大切な人の手を握ることができなかった。

説教くさいことは言いたくないし、大きなお世話だという気もするのだけれど、恥ずかしがらず、生きている間にたまに手をつなぐくらいのことをしてもいいんじゃないかなと思った。

「ああ、そういえば。私、○○さんと手をつないだことありますよ」

「まじか! 意外だなあ」

「つなぎたいですか?」

「いや、いい。高くつくから」

俺の意思を確認したときの友達の笑顔はとても素敵で、俺はそれで十分だと思ったのだけれど失敗したかなあ。一応、まだ生きている。俺は、生きているぞ!!

「雑音に埋もれたまんまの埃まみれの本音」

「前回無駄話で終わってしまって、本題に入るの忘れてました!」

「事件か!」

「5分だけ時間を作ってください。家の前でもいいんですけど」

「家の前はやめて」

連絡のあった日、ちょうど俺は日勤だった。深刻な話なのか、冗談なのか。5分なら後者かなあと思いながら友達と待ち合わせる。

「はい、これ」

「?」

友達からムラサキスポーツの袋を受け取る。

「こないだ、一緒に買い物行ったのに、結局何も買わなかったから」

「君に教えてくれたところでズボンを買ったよ」

友達からプレゼントをもらう。

「勝負パンツです」

いったいいつ俺は勝負するんだと笑った。ありがとう、とても嬉しい。お返し、何がいいかな。今のところ、思いつかない。

「屁理屈の正義で夢を殺す。僕らの明日が血を流した」

友達の名前には、花の名前が入っている。綺麗な名前だと思う。俺は彼女のことを名前で呼んでいるけれど、ここでは仮に桜さんと書こう。

桜さんとYさんは恋人同士で、俺は彼女よりも先に彼と知り合った。彼は千葉寄りの町で働いている。年に数回、会いに行く。

春にCさんが異動する。そんな話を聞いた。異動先は、Yさんが働く町。ふらっと遊びに行ってお酒を飲んでいたら、なんだか彼女を待っているみたいで、ますますストーカーの色彩が強くなるかもしれない、今のうちに会っておこう、俺はそう考えた。

桜さんに連絡した。日曜日、Yさんが働いているかどうか。また、桜さんに時間があるかどうか。もしYさんが働いていて桜さんに時間があるなら彼の店に行こう。聞いてもらいたい話がある、と。

「実は、1月いっぱいで彼、辞めたんです。嫌な辞め方ではないです」

「!!」

そうなるとどうなるんだ。俺があの町に行く理由はなくなる。あの町に行かなくなるということは、ストーカーの嫌疑をかけられることもない。

「彼は日曜、お休み?」

「はい。私は仕事なので21時過ぎなら」

「俺の話を聞いてくれー! もちろん、彼も一緒に」

「オッケーです!!」

相談したかったわけじゃない、賛同して欲しかったわけでもない。強いていうなら答え合わせか。たぶん、俺は答え合わせがしたかったんだ。

日曜日の夜、駅で二人を待つ。

「すみません! 今××にいるんですけど……」

そこは、駅から5分ほど歩いた所にあるパチンコ屋さんだった。状況が分からなくて笑った俺は「仕事とは」と返事を書いた。

後で話を聞くと、お休みだったYさんはパチンコを打っていたらしい。仕事を終えた桜さんが彼を迎えに行くと大当たりが続いていた。終わる気配がない、やむをえない、彼を置いていこう。彼女が判断したタイミングで、ちょうど大当たりが終わった。

YさんはYさんで、俺が桜さんに話したいことがある、ということは、自分がそこにいない方が良いのではと考えていたらしい。なんとも呑気というか、器が大きいというか。君に聞かれて困る話を桜さんにしないよ。

世の中の、パチンコのイメージが最悪であることは分かっている。「ゴミ溜めみたいなパチンコ」俺の好きな曲にはそんな歌詞があるように。だけれど、それは事象の一面にすぎない。娯楽としてのパチンコも確かにあるのだ。『僕だけがいない街』にあるパチンコの描写はとてもフラットなものだった。

そういうわけで、我々は無事合流を果たした。

「待たせてしまって」

「待ってない」

黄色の看板を掲げる焼肉屋さんで、二人に話を聞いてもらった。

「でも、音楽は続けるんですよね?」

「フェードアウトしようと思う」

二人は、肯定も否定もしなかった。いや、どうだろう。少なくとも「こいつ何言ってんだ」という顔をしていなかったように思う。答え合わせ、できたかな。

「昨日の今日も延長戦」

戦ではなく線かな。どっちだろう、調べたら戦だったけれど。

1月10日、ちょっと間違った。それが些細なことなのか大事なのか、俺には分からない。しくじったな、そう思った。

夜、別件で友達に連絡した。最初は文字で会話していたのだけれど面倒くさくなったのだろうか「電話していいっすか?」と言われた。少し、時間があった。

10分に満たない電話が終わった。雪の降る町、コンビニの外にある灰皿の前。俺は二つの意味で驚いていた。

ひとつは、俺の心がこわばっていたということ。自覚していなかった。友達の声を聞いて、ほどけて、気づいた。俺、こわばっていたんだ。原因ははっきりしている。しくじったからだ。

もうひとつは、こわばりが直ったこと。治った、かな。直ったか。

友達の声で直るんだなあと驚いた。

翌日、俺は自分の疑問が的外れであったことに気づく。「こいつ何を言ってるんだと思っていただろう」友達に送る。「未だによく分かっていません」返信があった。

「君と話したかったんだな」

俺の冗談は冗談のまま届いた。いやあ、しかし驚いた。そうか、そういうこともあるか。

「手を振った君がなんか、大人になってしまうんだ」

これは、もはや呪いみたいなものじゃないか。

 ◇

 吸っている煙草のパッケージが変わった。幾度となく見た目が変わってきた銘柄ではあるけれど、今回の変更は、ちょっとあまり、好きではない。気持ち悪いというか落ち着かないというか。馴れるのかな。

 煙草を変えるかもしれない。

 そういえばと考える。彼が吸っていた煙草はなんだっけ。小説の登場人物だ。ひとりは思い出せる。たぶん合っている。念のため調べてみた。やはり合っていた。ラクダ。もうひとりは、と考えてみる。思い出せなかった。調べた。

 俺が今吸っている煙草だった。偶然ではない。俺は彼の影響でこの煙草を吸い始めた。だいぶ恥ずかしい。彼のように頭の良い人にはなれなかった、彼のように優しくもなれなかった。だけれど、きっと俺は彼に憧れてこの煙草を吸い始めたのだ。これは、恥ずかしいぞ。何度でもいう。恥ずかしい。そうか、そうだったのか。すっかり忘れていた。なんだか呪いみたいだな。そんなふうに思った。

 ◇

 友達との約束を果たした。ついでに、俺の考えを伝えた。俺は彼がどのように考えているのか分からない。話を聞いたところで、おそらく教えてはくれないだろう。もしくは、彼も分かっていないんだろう。彼と俺が違う人間であるということは分かっている。だから俺の考えを当てはめたところであまり意味はない。それでも。分からないなら分からないなりに考えてみるしかないじゃないか。下手の考え、休むに似たり。休め休め、休んでおけ。ニタリ。俺、ニタリという表現を使ったことがないな、たぶん。

 「前にも言ったけど、それはふたりでやった方がいいと思う」

「ミックスよろしくです」

「俺は、関わらない方がいいと思うんだ」

 分からない。答え合わせもできない。俺だったら。彼が俺なら「まぜて!」と思ったんじゃない。彼は我々とやりたかったんじゃない。君とやりたかったんだ。だから、そこには俺がいない方がいい。

 「パソコンない!」

「貸すよ」

「使い方分からない!」

「教える」

 前にも書いた。意地悪をしたいんじゃない。それが、一番良いと思ったんだ。実はこのパソコン、それなりに大切に思っているんだ。友達から預かっているギターと同じくらいには。でも君ならいいよ。貸すよ。

地の文を、俺は彼女に話していない。俺は、そんなに話すのが得意な方じゃないし、どうだろう、もしかしたら話したくないのかな。

 

友達を家まで送り「それではね」と言う。さよなら。

「伝えなくちゃいけないお前の言葉で」

昨年末、友達と約束していた。話を聞いた結果、白紙に戻した。

気をつけていたつもりだったけれど、十分ではなかった。もしくは不適切だった。友達が恋人と喧嘩した。原因は俺らしい。12月28日が終わった夜、いつもの焼鳥屋さんが避難所になっていた。

彼女から話を聞いた俺は「ごめんね」と謝った。そんなつもりじゃなかったし、そんなつもりはなかった。だけれど、俺の気持ちは関係ない。大切なのは、相手がどう思ったかだから。友達の恋人は、一緒にお酒を飲んだり遊んだりするのが嫌だったらしい。よくある話だ。そして、たぶん俺はよくある話が好きじゃなかった。お前の知っている誰かと俺を一緒にするな。俺は誰かに対してそう思っているのかもしれない。少し、嘘をついた。本当は、こう考えている。俺は、お前みたいにはならない。会ったこともない特定の相手に対して、そう思っているのだ。

「あのね」
「はい」
「優先順位の話なんだけど。本当に困ったことが起きたとき、俺は大切なことを上から三番目くらいまで考えて、それ以外の全てを無視する」
「はい」
「俺にとって約束はとても大切なことだけど、今回の場合は三番目までに入らない。ご飯食べに行くの、やめよう」
「‥‥はい」

そうして、我々の約束は白紙に戻った。お店の人になんて言おう。後で考えることにした。

「彼に一言謝ろうと思うんだけど」
「謝らないでください。悪くないんだから」
「良いか悪いかって話じゃない気もする」
「謝らないでください」

困った。

29日は昼くらいに起きた。
友達の恋人からメッセージが届いていた。それは、要約すると「言いがかりをつけてすみませんでした。まったく嫌じゃないので、これからも彼女と仲良くしてください」という内容だった。どうしろっていうんだよ!! 地の文で久し振りに感嘆符を使った気がする。状況が分からない、どういう話になっているのだ。
「起きてる?」友達にメッセージを送ると、すぐに「起きてます!」と返事があった。逃げるな、行け。電話した。緊張する。

「彼、酔っていて何も覚えていないらしいです。私は、ネチネチとメッセージを送り続けています」
「だから、返事が早かったのか」
「はい」
心配だから電話した。言わなかった。
「たぶんまだ間に合う。先のことを考えよう」
二人のことを考えよう。お酒さえ飲まなければ。よくある話の、息の根を止めよう。

友達との電話を終えた後、予約していた店に電話した。どうしよう。俺は、意味のない嘘をついた。
「振られました。一人で行きます」
今日も格好悪い、恥ずかしい。そう思いながら。

店長と料理人。二人が俺を迎えてくれた。俺のことをキッチンの方からチラチラと見ては、にやにやしていた。
「深爪さん、振られちゃダメだよ」
笑った。まったくもって、その通りだ。

「料理の写真、送ってください」
友達からのメッセージ。
「嫌がらせになると思ったからやめておこうと思って」
「ならないです! 送ってください」
二枚ほど送った。
「行きたかった! 行きたかった!! 行きたかったー!!!!」
だから言ったのに。
「今の問題が解決できたら、きっとまた誘うから」
「約束ですよ!」

また、約束か。昨日の友達は、俺が驚くくらいに弱っていたけれど、少しは回復したのだろうか。

俺が何かを話したところで、おそらく、彼は俺の話を聞き流すだろうというのが彼女の予想だった。もしそうなら意味がない。そして、俺には謝って欲しくないとも。優先順位の話だ。俺が納得するかどうかは、三番目までに入らない。最優先するべきは。

年が明けた。彼に会えた俺は二つの提案をした。そのうちのひとつに、彼女は抗議した。無視した。とても大切なことだ。意地悪をしたいんじゃない。俺が悪かったと非を認めず、彼の立つ瀬を壊さず、聞き流すという選択肢を彼から奪う方法はこれしか思いつかなかった。

うまくいくかどうかは分からない。それが分かるのは、早くても来年、もしくは再来年だろう。自分なりには、頑張った。

そういうわけで、ちょっと長くなったけれど本題に入ろうと思う。

はてなブログに引っ越します! 今まで、俺の話を聞いてくれてありがとうございました。これからもよろしくお願いします。いや、本当に。俺の話を聞いてくれ! 俺の、話を、聞いてくれーーーー!!!!!!

https://deepcut.hatenadiary.com/

「何度消えてしまっても、砂の城を僕は君と残すだろう」

12月10日、友人のMに言った。
「今回の件、俺は首を突っ込まないことにした」
Mからは「私も」という返事。彼女は、ああ、そうだと続けた。

「私もきみに言いたいことがあったんだ。課題図書を交換しない? 本を読んでいたらきみに合いそうだと感じた。送る。でもそれだったら、きみからも何かお薦めを教えてもらおうと思って」

俺のことを覚えておいてほしいとは思わないけれど、何かをしていて俺のことを思ってくれたのだとしたら、それはとても幸運なことだ。俺も、見上げた月が細いとMのことを思い出す。猫の爪、俺じゃなくて彼女が使った言葉。少し考えてから正直に話した。

「互いに本を送り合うという行為は、とても瑞々しいものだと思う。俺の提案は『未来に訪れる瑞々しさ』を放棄するものになってしまうかもしれない。けれど、お互い、タイトルを伝えるに留める形はどうだろう? 俺、あんまり家にいないから本一冊受け取るのも難しくて」

Mは「うん。そうしよう。何か思いついたら教えてね」と。あれから1ヶ月。「これかな?」と思いついた本が二冊ほどあったけれど、読んだのはだいぶん昔のことで、彼女に薦めたいのかどうか確信が持てない。だから、もう一度読んでみようと思う。

「いったい誰が知っているの? いったい何が教えてくれるの?」

俺のことを「○○ちゃん」と呼ぶ人は限られている。そのうちの一人から電話があった。勤務中、原則として仕事以外の電話には出ないのだけれど、彼からの連絡はそう多くなかった。
「○○ちゃん?」
呼ばれて、少しだけ懐かしい気持ちになった。
「何かあった?」
「××くん、うちの会社に来ているよ」
最初、俺は聞き取ることができなかった。あるいは聞こえていたけれど、彼が××の名前を口にすることを想定していなくて、認識できなかった。聞き直した。
「××くん」
「まじか」
××は元同僚だ。そうか、友達の会社を受けたのか。どれくらいの頻度で発生する偶然なのだろう。友達が代表を務める会社は、まったくの別業種だった、友達は、今回の偶然を面白いと感じたのだろう、だから、俺に電話をくれた。
「今、目の前にいる」
正解か不正解かを別として、俺は自分が正しいと思うことを選択している。試験と同じで、わざとは間違えない。どうするべきか? 話しながら考えていたけれど分からなかった。どうすれば良いのか、判断できなかった。
電話の向こうにいる友達のことを思う。そして、友達の向かい側に座っている元同僚のことを思う。だけれど、それはきっと一瞬だった。それ以上に、二人の家族のことを考えていた。
余計なことをしたくない。邪魔を、したくない。俺は、俺の一言に対して責任を取ることができない。だけれど、だったら、沈黙すれば良いのだろうか。沈黙が正しいのか?

それもたぶん、違う。

きっと俺の異変に気付いた友達に言う。
「話したいことがある。けれど、時間がほしい。かけ直す」
通話時間は1分くらいだった。今、携帯電話を確認して驚いた。1分しか話していないのか。5分後に、友達からもう一度着信があった。

「席をはずした」

友達は勘が鋭いけれど、それ以上に、俺の挙動がよほどおかしかったのだろう。

××が会社を去ることになった理由を、友達に話した。間違っている。俺は人の邪魔を選んだのだ。こっちも、たぶん間違いだ。

「そう、だったんだね」

××は、俺にとってかわいい後輩の一人だった。俺は友達に続ける。差し出がましいと思った。だけれど話した。彼の優秀なところ、彼と働くうえで気をつけた方がよいところ。時間が足りない。話したいことは沢山あった。

「あとは、きみが判断してほしい」
「分かった。仕事中だよね、ありがとう」

友達との電話が終わった。俺は、電話をしながら汗をかいていただろうか? 覚えていない。